2018年10月31日水曜日

伊勢で大麻の精製作業始まる

NHK津放送局のニュースで、三重県の南伊勢町で神社のしめ縄などに用いられる大麻の繊維を作る作業が始まったことを取り上げていました。
大麻とは、例のあの「大麻」のことです。
言葉を聞くと「麻薬」とか「幻覚作用」とか言ったダーティーなイメージを思い浮かべてしまいがちですが、もともと、お祓いに使う祓串(神職が振る、白いハタキのような神具)などに使われてきた神事用の神聖な植物という側面を持っています。

NHK津放送局HPより
しかし、大麻の栽培については、悪用や濫用の恐れが高いことから法律によって厳しい制限が設けられており、国内の栽培農家も年々減少していました。
このため、日本の伝統的な神事に使われるにもかかわらず、多くの神社では中国などから輸入された大麻を使用しているのが現状で、これに危機感を持つ神社関係者らで構成する「伊勢麻振興協会」が、三重県に対して県内での栽培許可を申請していました。
この審査には紆余曲折あったようですが、防犯対策の強化などについて県から指導を受け、今春、栽培が許可されました。

伊勢麻振興協会は、繊維に換算して30kg分の収穫を想定し、伊勢市内の畑で栽培を行ない、8月に収穫を終えたとのこと。南伊勢町の職人が加工した精麻(大麻の茎を発酵させ、表皮を剥いで精製したもの)は桑名市の多度大社と、鈴鹿市の椿大神社に供給される予定とのことです。


◆NHK NEWS WEB 許可受け 大麻草の繊維を作る 10月31日

一般社団法人 伊勢麻振興協会 ホームページ

2018年10月27日土曜日

奈良・般若寺と伊勢神宮をつなぐもの

先日、奈良市にある般若寺に行ってきました。
般若寺は飛鳥時代に高句麗の僧・慧潅によって開創され、奈良時代になると聖武天皇の勅願によって整備が進み、般若寺と命名されたという古刹で、今では「コスモスのお寺」としても有名です。
この日もコスモスがまさしく満開を迎えており、たくさんの参詣客で賑わっていました。




般若寺と伊勢神宮。
一見するところ関連は薄いように思われるかもしれませんが、この二か所には、共通するある重要なキーパーソンが存在していました。
それが鎌倉時代後期、14世紀に活躍した叡尊(えいぞん)という高僧です。

この時代の仏教界は、中国から新しく禅宗が伝わり、平安時代以来の密教や浄土信仰はさらに発展して、法然や親鸞、日蓮といった改革者が現れました。しかしそれと同時に、南都六宗と呼ばれるような奈良時代から続く教派においてもさまざまな改革者が現れました。その代表的な一人が叡尊(えいぞん、えいそん)です。
叡尊は一言でいえば、腐敗堕落がはびこっていた既存の仏教界にあって、厳格な戒律の復興を強く唱え、かつ実践した僧です。
彼は戒律を重視した真言律宗という教派を創設し、病人や貧者の救済などの慈善活動に従事し、身分の貴賤を問わず仏教への信仰が篤い人々には自ら戒律を授けました。
こうした姿勢は多くの民衆だけでなく為政者からも支持を得るところとなり、次第に大きく成長した真言律宗の教団は、この時代までに寺勢が衰退してしまっていた各地の由緒ある寺院を次々と再興していきました。
このように叡尊教団によって再興された代表的な寺の一つが、ここ般若寺です。

叡尊はまた伊勢神宮への崇敬も篤く、計3回、弟子たちと共に伊勢神宮を参拝しています。
ちょうどこのころ、日本を襲った国難が元寇です。
朝廷は各地の神社仏閣に対して敵国降伏のための祈祷を命じましたが、叡尊教団も元軍の退散を願って伊勢神宮へ祈祷を行うこととなり、大般若経の転読を奉納したと伝えられています。
叡尊は伊勢神宮の神宮寺として法楽(仏事)の本拠地となる弘正寺を、内宮のある宇治の地に創建しました(実際はこの弘正寺も、荒廃していた寺を新たに再興したものと考えられています)。

日本仏教に偉大な足跡を残した叡尊は、1290年(正応3年)に死去しました。享年90才。当時としては大変な長命だったようです。
死後、生前の精力的な仏教改革と慈善活動が評価され、伏見上皇から「興正菩薩」という菩薩号を贈られました。

残念ながら伊勢神宮における真言律宗の一大拠点であった弘正寺も、戦国時代など社会混乱を経る間にすっかり衰退してしまい、江戸時代頃にはかなり荒廃してしまっていたようです。
そして、伊勢(宇治山田)における他の寺院と同様に、明治政府による廃仏毀釈政策によって廃寺となり、完全に破却されてしまいました。

■般若寺公式ホームページ  http://www.hannyaji.com/


In Nara there is an old temple called Hannyaji-Temple, which was founded in the 7th century.
In the thirteenth century, Hannyaji was revived by a priest named Eizon.
Eizon cherished precepts and reformed the Japanese Buddhism world at the time. He also carried out philanthropic activities such as relief of leprosy patients, leaving a name in history.
He was also highly adored to Ise-Jingu, visited Ise-Jingu three times with his disciples and carried out mercy.
In addition, he built a temple called Koushōji-Temple in the vicinity of Ise-Jingu.
Since the policy of completely isolating Shintoism and Buddhism was taken in the 19th century, Koushōji was destroyed and now it does not exist.

2018年10月19日金曜日

伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(4)

(承前)伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(3)

伊勢神宮・外宮から、旧参宮街道(古市街道)に入り、小田橋を渡り、尾部坂を登り、いよいよ江戸時代には国内有数の繁華街だった古市にやってきました。ここまで約1時間です。
伊勢古市参宮街道資料館の向かいは、高速道路(伊勢自動車道)の交差点があります。高速は地下を通っており、古市街道と側道が交わる交差点は広場になっています。


ちなみに、朱色のオブジェの奥に見えるふたこぶの山は「鼓が岳」で、かの西行が伊勢(宇治山田)に逗留していた時に、鼓が岳の和歌を詠んだりしています。
この付近はやはり道が江戸時代規格で狭いので、歩行時はクルマに気を付けてください。


古市を過ぎ、今では完全に閑静な住宅街になった街並みを歩いていきます。
数分で、右手に巨大な石灯籠が並んでいるのが目に入ります。明治時代の篤信家が建立した奉献灯です。


古市街道はここから急な下り坂になります。「牛谷坂」と呼ばれています。


かつてはここが伊勢神宮・内宮の鳥居前町である宇治(ちなみに、外宮の鳥居前町が山田)の境界に当たり、宇治惣門という門があり、宇治の町に入る人々を監視していました。


ここで旧古市街道は終了です。道は御木本道路、つまり、外宮前広場の前を通る4車線の自動車道に合流し、一気に観光地ムードが高まります。


この交差点(三叉路)を左に曲がります。
すると、猿田彦神社があります。大正時代に創建された伊勢では比較的新しい神社で、クルマのお祓いや七五三参りなどで親しまれています。


猿田彦神社を過ぎると、宇治浦田町の大きな交差点はすぐです。ここは外宮から続く御木本道路と、名古屋方面からの国道23号が交差する場所で、週末や観光シーズンには大渋滞が発生します。


この交差点を過ぎて、すぐ右側が「おはらい町」の入り口です。


今となっては想像できませんが、昭和の終わりごろまでは、普通の住家が並ぶどこにでもあるような路地でした。平成5年に第61回式年遷宮が斎行されるにあたり、赤福グループが再開発を行って「おかげ横丁」というテーマパークを建設しましたが、それに合わせて景観の整備が行われ、今のような姿になったのです。
ここまで、外宮前から1時間半ほどです。さすがに疲れてきたので、おはらい町にある赤福本店でちょっと休憩。


疲れた体に甘味は効きます。さっぱりと渋い、温かいほうじ茶も疲れを癒してくれます。
赤福本店から数分で、伊勢神宮・内宮のシンボルである宇治橋の大鳥居前に到着します。


まだ朝9時ごろなので人は少ないですが、これからどんどんどんどん人が押し寄せ、混雑が始まることでしょう。
しかし、自分の足で歩いてくると内宮参拝もありがたみが増すように思えるから不思議です。普通の体力があれば外宮と内宮は1時間半~2時間程度で歩くことができますから、ゆっくりといにしえの宇治山田に触れたい方は、ぜひ両宮を歩いて参拝されてはいかがでしょうか。

2018年10月16日火曜日

伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(3)

(承前)伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(2)

伊勢神宮・外宮(げくう)前から旧参宮街道(古市街道)のこの場所までおよそ30分です。
お杉お玉の石碑を過ぎ、さらに尾部坂の登りは続きます。
坂を登りきると交差点(三叉路)になっています。見通しが悪いので車や自転車に注意が必要です。今来た坂を見下ろすとこんな感じ。


この三叉路を左(上の写真では右方向に当たる)にしばらく行くと、江戸時代まで伊勢(宇治山田)で有数の大寺院だった常明寺の跡があります。ここは現在、大和からこの伊勢へ天照大神をお連れしたという伝説上の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)の墳墓とされる古墳が残っています。常明寺についてはまた別の機会に詳しくご案内します。

先に進むと、古市街道の由来となった宇治山田で最大の繁華街、歓楽街であった古市のエリアに入っていきます。


高名な神社仏閣の近くには遊郭が隣接しているケースが多いですが、古市もまさにそうで、お伊勢参りの参詣者が精進落としのどんちゃん騒ぎをする場所だったようです。
前回も書いたように、古市は馬の背のような細長い山の尾根づたいに道があり、その両側に建物が建ち並んでいます。下界からは坂を登って来なくてはならず、ある種の別世界感があったのだと思います。

最盛期(江戸時代中期)には数十軒もの遊郭があり、1000人近くもの遊女がひしめいていました。大きな芝居小屋もあり、いくつもの茶店や商店、旅籠が軒を連ねていました。


道沿いにはかつての繁栄を偲ばせる石碑がいくつも建っています。


この油屋は、備前屋、杉本屋と並んで古市の三大妓楼といわれていました。寛政8年(1796年)に実際に起こった痴情殺人である「油屋騒動」は多くの遊興客で賑わう中での凶行だったため、たちまち噂が全国に持ち帰られて広まり、この事件を脚色した「伊勢音頭恋寝刃」という歌舞伎は江戸、上方で大ヒットしました。


このように全国に名をとどろかせた古市ですが、明治になり伊勢神宮が政府の管理の国家神道となると、物見遊山としてのお伊勢参りは不謹慎と考えられるようになってきます。山の上にある地形は馬車通行に適さなかったこともあって新たに迂回路が設けられ、明治中期には市電が開通したせいで古市にやってくる客は激減しました。
この間、多くの妓楼は廃業し、昭和20年の伊勢大空襲によって大廈高楼のほとんどが焼失しました。
高度成長期には周囲の都市化も進み、かつての面影はまったく失われて今に至ります。油屋の跡地も線路(近鉄)の開通によって削られてしまいました。


例外的にほぼ唯一現存する旅籠が、油屋跡を過ぎて数分のところにある麻吉(あさきち)旅館です。


山の斜面に建っているため木造ながら6階建てという大きな旅館で、国登録有形文化財にもなっています。もちろん現在でも宿泊が可能です。

麻吉旅館を過ぎると、寂照寺というお寺があります。古市にも多くの仏閣があり、そのほとんどは明治初期に廃寺になりましたが、寂照寺はその後復活し、高名な画僧であった月僊(げっせん)上人の偉業を今に伝えています。


寂照寺と月僊についても、また別の機会に詳しく触れることにしましょう。
ここを過ぎたあたりから古市街道はもともとの江戸時代サイズの道幅に急に狭まります。
普通乗用車がやっと通れるほどですが、路線バスも走っているので歩行には十分気を付けてください。


小田橋から30分弱、外宮からは1時間ほどで、伊勢市立伊勢古市参宮街道資料館に着きます。ここはぜひ、見ていってほしいと思います。(入館無料)


大火や戦災で多くを失った古市ですが、華やかな伊勢音頭の踊りを描いた浮世絵や、芝居小屋で使われた歌舞伎の衣装、遊郭で使われた豪華な皿や酒器など、貴重な資料が展示されています。遊郭という暗いイメージの一方で、謡曲、芝居、ファッションなどで古市は最高峰、最先端の流行発信地でした。

伊勢古市参宮街道資料館の公式ホームページ  http://www.amigo.ne.jp/~furuichi/

歩いてきたルートはこちらです。

(つづく)

2018年10月15日月曜日

伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(2)

(承前)伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(1)

伊勢神宮・外宮(げくう)前から御木本道路に沿って右側(南東)に進み、岡本1丁目交差点を左折し、さらにすぐの交差点を右に入ると、旧参宮街道(古市街道)になります。
ここまで10分ほどです。


ここを道沿いにまっすぐ歩いていきます。わずかに古い常夜灯などが残っているほかは、いにしえの面影はほとんど感じられず、閑静な住宅街になっています。
5分ほど歩くと、近鉄の高架が見えてきます。この下をまっすぐ進みます。


3分ほど行くと勢田川(せたがわ)が見えてきます。周りはすっかり都市化しているのであまりきれいな川ではありませんが、かつては外宮の鳥居前町である山田(現在の伊勢市中心市街地)の物流を支える舟運に活用された川でした。


ここにかかるのが小田橋(おだのはし)で、古くから外宮と内宮の間の結界の一つとしてよく知られる橋でした。


橋の両岸にはそれぞれちょっとした広場が作られていて、小田橋の由来や往時の賑わいの様子の説明板があります。


ここから先は尾部坂(おべさか)という登り坂になります。古市街道は俗に「馬の背」と言われるような細長く続く山の尾根に沿って道が通り、その両側に旅籠や芝居小屋、遊郭、商店などが建ち並んでいる、かなり特異な地形でした。

このブログ「仏都伊勢を往く」で一貫して取り上げてきたように、宇治山田には明治時代まで多くのお寺があって、お伊勢参りに来た人々はこれらのお寺にも参詣をして行くのが普通でした。
小田橋を渡って尾部坂に差し掛かるあたりにも、岡嵜宮という妙見菩薩を祀ったお堂があって、参宮客によく知られた名所でした。(この妙見菩薩は明治時代の廃寺後に所有者が点々とし、現在は東京のよみうりランド内に安置されているそうです。)

坂の登り口はこんな感じ。左側に伊勢うどんの名店「起矢食堂」の看板が見えます。
ここのやや手前にコンビニ(ローソン)がありますが、ここがこのルートで唯一のトイレがある場所です。


この坂道、案外クルマが多いので歩行時には気を付けてください。特に下りのクルマは猛スピードなので、ヒヤッとすることがあります。
坂を登りだして2~3分ほどで「間の山」(あいのやま)と書かれた石碑が現れます。
外宮と内宮(山田と宇治)の間にあるから間の山。尾部坂の別名です。そしてここは、お杉お玉という二人組の女三味線弾き芸人がいることで有名な場所でした。


江戸時代、日本の人口が3000万人に満たなかったころ、お伊勢参りのお客は年間数百万人もいたとされています。これら多くの参宮客が毎日ここを通るわけなので、自然とたくさんの大道芸人が付近に集るようになり、歌や三味線を聞かせておひねりをもらい、生計を立てていました。「お杉お玉」は特定の誰かを指すのでなく、二人組の女三味線弾きの総称だったのです。

伊勢参宮名所図会の「間の山」(お杉お玉やササラ踊りなどの芸人が描かれている)

江戸時代には字を書ける庶民も多く、参宮日記(道中記)が全国に非常に数多く残っていますが、これらにも「お杉お玉」はほぼ必ず登場します。それほど有名な存在だったのです。こうした伊勢参宮日記は皆さんの地元の図書館や郷土資料館にもあるはずなので、ご先祖たちがお杉お玉を見た様子をぜひひも解いてみてはいかがでしょうか。
興味深いのは、お杉お玉が歌う謡曲について「意味がよく分からなかった」とか「卑俗な内容だった」などと記している道中記が多いことです。少なくとも品行方正な歌ではなく、長い旅の末にやっと目的地のお伊勢さんに着いた、その旅人の解放感(享楽感でしょうか)をそそるような内容だったようです。
(つづく)

2018年10月14日日曜日

伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(1)

伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)の間は直線距離で約4㎞、道路の最短距離で約5㎞離れています。普段から歩く習慣がある人なら90分ほどで歩ける距離ですし、伊勢(宇治山田)の街並みを見ながらぶらぶら歩くのもいいものですので、ぜひこの秋は両宮の間を歩いていただいてはどうかと思います。
外宮から内宮までを、江戸時代のメインルートだった参宮街道(日本有数の歓楽街だった古市を経由するので、古市街道とも呼ばれます)を歩いていくルートをご紹介しましょう。

出発点は、伊勢神宮の最寄り駅であるJR伊勢市駅からにします。この駅は近鉄との共同駅なので、近鉄利用の方はJR側の出口に回ってください。


駅前は広場になっており、2013年に行われた第62回式年遷宮を記念して建てられた鳥居が建っています。伊勢神宮・外宮へはこの鳥居の道をまっすぐに西のほうへ進みます。(たいへんわかりやすいので、迷うことはありません。)


道の両側には土産物店や飲食店が建ち並んでいます。昼間はかなりの人出になりますが、この写真を撮ったのは早朝だったため人はほとんどいません。

歩いて10分足らずで外宮が見えてきます。


外宮前には御幸道路(みゆきうどうろ)と御木本道路(みきもとどうろ)という大きな道路が二本並行して通っているので、横断歩道が二つ連続する変則的な交差点です。


外宮は正式には豊受大神宮と言い・・・といったような説明は、このブログ以外にいくらでも観光案内のサイトがあるのでそちらをご参照ください。
内宮に比べて、外宮は平坦な土地にあり、宮川の舟運など交通の便も良かったため、早くから山田という大きな鳥居前町を形成していました。
外宮はそもそも内宮の祭神(天照大神)に食事を提供する「御食津神」(みけつかみ)が沿革です。なので、内宮に従属する地位にあるはずですが、山田は内宮が立地する宇治(注:もちろん、伊勢の「宇治」であり、京都にある「宇治」ではありません)よりも人口も経済力も大きかったため、鎌倉時代ごろになると、外宮は内宮と同格か、むしろ優越していると主張する「伊勢神道(度会神道)」が生まれたのでした。
それはさておき。

外宮をお参りしたら、先ほどの連続する横断歩道の場所まで戻ります。そして、御木本道路のほうを、右方向に進みます。この写真でいうと、手前の歩道を右方向に進むことになります。


歩道を5分ほど歩くと、「岡本1丁目」という交差点がありますので、それを向かって左側に進みます。
下の写真の、左側(赤信号の見える方向)に進みます。



岡本1丁目交差点を左に渡ると、大きな屋根の建物が見えます。目的の参宮街道(古市街道)は、ここをさらに右に曲がります。看板が出ているので見落とさないようにしてください。



大きな建物は「祖霊殿」で、伊勢特有の神道式の葬儀場です。


この参宮街道への入り口さえ見つけられれば、あとは基本的に道沿いにまっすぐ行けば内宮まで行くことができます。江戸時代は外宮と内宮の間をつなぐ大きな道は、このルートしかありませんでした。江戸や上方をはじめ、全国各地からお伊勢参りになってきた何十万もの人々のほとんどは、この古市街道を通って内宮に向かったのです。
それでは、次回から、この道をぶらぶら歩いてみることにします。

***ご注意***
古市街道の大部分には歩道がありませんから、クルマには十分気を付けてください。
また、途中には公衆トイレはありませんので、その点もご留意のうえお歩きください。

(つづく)


2018年10月13日土曜日

伊勢神宮祭主が建てた寺院「蓮台寺」(2)

(つづき)
大中臣永頼が伊勢神宮の祭主職だったのは平安時代中期の991年~1000年ですが、その在任中の1000年(長保2年)には、伊勢神宮最大の重要神事である式年遷宮が内宮で斎行されています。この当時の式年遷宮は、内宮と外宮で別々の年に行われていました。

伊勢市教育委員会が建立した鼓岳山蓮台寺跡の石碑

「太神宮諸雑事記」という書物によると、晩年の永頼祭主は、病気のために遷宮の儀式に仕えることもままならない状態でした。
おそらく、かねて健康に不安を抱えていた永頼さんは、死後来世での平安や、大中臣家一門の繁栄などを仏に託したいと強く思うようになり、寺院の建立を強く発願したものと思われます。

「鼓岳山」という山号の由来である鼓が岳が臨めます

しかし不思議なのは、なぜ天照大神に仕える神職たる祭主が、本来忌避するべき対象であった仏教にここまで強く帰依するようになったかです。

これについては次のような理由が考えられます。

1 伊勢神宮は元来が私幣禁断、つまり、天皇本人以外がお祈りすることを原則として禁止している、きわめてプライベートな祭祀の施設であったこと。
 この原則はここで祭祀の実務に従事する神職にも当てはまり、来世での救済や一族の安泰は仏教への信仰によって得られるという考え方が神職の間でも広まっていたこと。

2 祭主職は京に在住し、伊勢とを往復する生活を送っていたため、現生利益を求める密教とか、極楽成仏を約束する阿弥陀信仰といった、最先端の仏教についてよく知りうる立場だったこと。

3 生や死とは何かについて、また、迷いから逃れ、悟りを得る手段について、仏教は体系化された具体的な理論(お経)と実践(仏事)を有しており、素朴な神事に比べて魅力的な(説得力がある)信仰と思われた。

宗教学者の伊藤聡さんは、この永頼祭主による蓮台寺建立について
「この説話は十一世紀当時の伊勢神宮の神官が直面していた苦悩をよく示している。彼らは、自らの現当二世における救済と、神宮のしきたりによって引き裂かれていたのだ」と述べています。(「神道とは何か」中公新書)
これが端的に永頼祭主の心境を代弁しているのでしょう。

蓮台寺を皮切りに、祭主を始め、内宮や外宮の禰宜(高級神職)らによる各地の寺への納経や寄進、自らの氏寺の建立、さらには出家は相次ぐようになります。


そして、このような伊勢神宮と仏教の融合は、平安末期から鎌倉、室町、そして戦国時代にかけて一層深まっていき、明治時代になる直前まで伊勢(宇治山田)の至る場所で神仏習合はごく普通に見られたのです。

Unlike the present day, Ise Jingu around the 10th century, ordinary people were not allowed to offer prayers.
Because Ise jingu is the place to pray for the prosperity of the Emperor and the State, people other than the Emperor could not pray for themselves.
This is the same for the priests, it was for Buddhist temples to pray for peace after the death of individual priests and prosperity of descendants.
Oonakatomi-Nagayori who built Rendaiji was a devout Buddhist while being a priest.
In order to set up a temple, he continued to pray for Amaterasu-Oomikami, the Deity of Ise Jingu, to get forgiveness for three days.
And he saw the dream of the golden Kannon from the Ise Jingu and was convinced that he got the forgiveness of Amaterasu-Oomikami.

2018年10月11日木曜日

伊勢神宮祭主が建てた寺院「蓮台寺」(1)

10月に入りましたが、伊勢(宇治山田)ではまだまだ暑い日が続いています。
とは言え、伊勢市の秋を代表する特産品である「蓮台寺柿」(れんだいじがき)もスーパーの店頭で目にするようになってきました。


蓮台寺柿は、藤里地区という、ちょうど伊勢神宮の外宮(山田)と内宮(宇治)の中間あたりに位置する丘陵地帯で300年以上前から栽培されてきた固有品種で、伊勢市の天然記念物にも指定されています。
ただ、古来からの品種の柿の多くがそうであるように、蓮台寺柿も渋柿で、生食が広く流通するようになったのは炭酸ガスによる渋抜き処理ができる施設が整備された、ここ十数年ほどのことです。

ところで、このブログの視点からは、この「蓮台寺」という地名が気になるところです。

この付近一帯はかつて旧宇治山田市に合併する以前は蓮台寺村と呼ばれる農村でした。地名の由来になった蓮台寺とは平安時代に伊勢神宮の祭主によって建立された、鼓岳山蓮台寺というお寺です。

宇治山田は廃仏毀釈がいち早く実行されたため明治2年には蓮台寺も廃寺になり、今、この一帯は柿畑と、昭和の高度経済成長期に開発が進んだ大規模な住宅団地に姿を変えて、かつてここにお寺があったことなど想像すら難しいほどに変貌しています。


それにしても、「祭主」という役職は、藤原鎌足を祖とする大中臣家が代々世襲してきた、伊勢神宮で最高位にある神職です。

全国のたくさんの神社、神宮の中でも、古代から外来宗教である仏教を忌避する姿勢が特に強かったのが伊勢神宮です。そのトップに当たる人物が、なぜお寺など建立したのでしょうか。

これについては、鎌倉時代初期(1212~1215年の間らしい)に源顕兼という人物が記した「古事談」という説話集に詳しく由来が書かれています。(古事談 第五 神社仏事 伊勢国蓮台寺事)

これによれば、蓮台寺を建立したのは伊勢神宮の祭主・大中臣永頼(おおなかとみながより)です。永頼は祭主という立場上、長らく仏事を憚ってきました。しかし、仏教への思念は捨てがたいものがあったようで、ある時、伊勢神宮に三日間参籠し、寺院を建立すべきかどうか天照大神の神意を問うていました。

そして参籠の最後の日、夢うつつの中で、内宮正殿の扉が開いて三尺(1メートル)ばかりの金色の観音様が光り輝いている姿を見たのです。

現代の常識では、永頼さんはおそらく三日間にもわたって瞑想を続けたため幻覚を見たのではないかと思ってしまいます。しかしとにかく、この夢告は永頼祭主にとって、天照大神から寺院建立を承認してやるというご託宣に思えたに違いありません。

実際に蓮台寺が建立されたのは平安時代中期の正暦年中(991~994年)と推定されており、最盛期には広大な敷地にいくつものお堂を有していたそうです。


しかし長い年月を経て、江戸時代の末にはかなり衰退してしまっており、天照大神の夢告である観音菩薩像を祀る、本堂だけの小寺になっていました。(この像は廃寺後、近くにあった中山寺に移されました。)
また、蓮台寺には寛永年間(江戸時代初期)に農民が境内地で耕作していて偶然発掘した八面鏡が伝えられています。これは瑞花双鳳文八稜鏡(ずいかそうほうもんはちりょうきょう)という平安時代の銅鏡であり、おそらく伊勢神宮から撤下された宝物と推定される大変に貴重なもので、伊勢市の有形文化財になっています。
(つづく)

The specialties of Ise city are Rendaiji-gaki(Rendaiji persimmon). 
Rendaiji-gaki is large and tasty persimmon, many people enjoy the taste in autumn.
Rendaiji is the name of a temple once in this place.
Ise city is the capital with Ise Shrine, the highest peak of Japanese Shintoism.
Since Ise Shrine has long been an exclusion of Buddhism originally a foreign religion.
However, Rendaiji was a temple built by himself of the priest of Ise Shrine a thousand years ago from now.
Why did the priests build a Buddhist temple? 

「MYひしゃく」でコロナ対策!?

  伊勢神宮・内宮の近くにある神宮会館で、参宮用の柄杓(ひしゃく)を販売していると聞いたので行ってみました。神宮会館は伊勢神宮崇敬会なる信徒団体が運営している宿泊施設で、私が子供のころは確か会員制で古色蒼然とした建物のホテルでしたが、20年ほど前に全面改築され、現在は誰でも泊まれ...