2018年10月15日月曜日

伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(2)

(承前)伊勢神宮の外宮と内宮の間を歩く(1)

伊勢神宮・外宮(げくう)前から御木本道路に沿って右側(南東)に進み、岡本1丁目交差点を左折し、さらにすぐの交差点を右に入ると、旧参宮街道(古市街道)になります。
ここまで10分ほどです。


ここを道沿いにまっすぐ歩いていきます。わずかに古い常夜灯などが残っているほかは、いにしえの面影はほとんど感じられず、閑静な住宅街になっています。
5分ほど歩くと、近鉄の高架が見えてきます。この下をまっすぐ進みます。


3分ほど行くと勢田川(せたがわ)が見えてきます。周りはすっかり都市化しているのであまりきれいな川ではありませんが、かつては外宮の鳥居前町である山田(現在の伊勢市中心市街地)の物流を支える舟運に活用された川でした。


ここにかかるのが小田橋(おだのはし)で、古くから外宮と内宮の間の結界の一つとしてよく知られる橋でした。


橋の両岸にはそれぞれちょっとした広場が作られていて、小田橋の由来や往時の賑わいの様子の説明板があります。


ここから先は尾部坂(おべさか)という登り坂になります。古市街道は俗に「馬の背」と言われるような細長く続く山の尾根に沿って道が通り、その両側に旅籠や芝居小屋、遊郭、商店などが建ち並んでいる、かなり特異な地形でした。

このブログ「仏都伊勢を往く」で一貫して取り上げてきたように、宇治山田には明治時代まで多くのお寺があって、お伊勢参りに来た人々はこれらのお寺にも参詣をして行くのが普通でした。
小田橋を渡って尾部坂に差し掛かるあたりにも、岡嵜宮という妙見菩薩を祀ったお堂があって、参宮客によく知られた名所でした。(この妙見菩薩は明治時代の廃寺後に所有者が点々とし、現在は東京のよみうりランド内に安置されているそうです。)

坂の登り口はこんな感じ。左側に伊勢うどんの名店「起矢食堂」の看板が見えます。
ここのやや手前にコンビニ(ローソン)がありますが、ここがこのルートで唯一のトイレがある場所です。


この坂道、案外クルマが多いので歩行時には気を付けてください。特に下りのクルマは猛スピードなので、ヒヤッとすることがあります。
坂を登りだして2~3分ほどで「間の山」(あいのやま)と書かれた石碑が現れます。
外宮と内宮(山田と宇治)の間にあるから間の山。尾部坂の別名です。そしてここは、お杉お玉という二人組の女三味線弾き芸人がいることで有名な場所でした。


江戸時代、日本の人口が3000万人に満たなかったころ、お伊勢参りのお客は年間数百万人もいたとされています。これら多くの参宮客が毎日ここを通るわけなので、自然とたくさんの大道芸人が付近に集るようになり、歌や三味線を聞かせておひねりをもらい、生計を立てていました。「お杉お玉」は特定の誰かを指すのでなく、二人組の女三味線弾きの総称だったのです。

伊勢参宮名所図会の「間の山」(お杉お玉やササラ踊りなどの芸人が描かれている)

江戸時代には字を書ける庶民も多く、参宮日記(道中記)が全国に非常に数多く残っていますが、これらにも「お杉お玉」はほぼ必ず登場します。それほど有名な存在だったのです。こうした伊勢参宮日記は皆さんの地元の図書館や郷土資料館にもあるはずなので、ご先祖たちがお杉お玉を見た様子をぜひひも解いてみてはいかがでしょうか。
興味深いのは、お杉お玉が歌う謡曲について「意味がよく分からなかった」とか「卑俗な内容だった」などと記している道中記が多いことです。少なくとも品行方正な歌ではなく、長い旅の末にやっと目的地のお伊勢さんに着いた、その旅人の解放感(享楽感でしょうか)をそそるような内容だったようです。
(つづく)

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