大中臣永頼が伊勢神宮の祭主職だったのは平安時代中期の991年~1000年ですが、その在任中の1000年(長保2年)には、伊勢神宮最大の重要神事である式年遷宮が内宮で斎行されています。この当時の式年遷宮は、内宮と外宮で別々の年に行われていました。
伊勢市教育委員会が建立した鼓岳山蓮台寺跡の石碑 |
「太神宮諸雑事記」という書物によると、晩年の永頼祭主は、病気のために遷宮の儀式に仕えることもままならない状態でした。
おそらく、かねて健康に不安を抱えていた永頼さんは、死後来世での平安や、大中臣家一門の繁栄などを仏に託したいと強く思うようになり、寺院の建立を強く発願したものと思われます。
「鼓岳山」という山号の由来である鼓が岳が臨めます |
これについては次のような理由が考えられます。
1 伊勢神宮は元来が私幣禁断、つまり、天皇本人以外がお祈りすることを原則として禁止している、きわめてプライベートな祭祀の施設であったこと。
この原則はここで祭祀の実務に従事する神職にも当てはまり、来世での救済や一族の安泰は仏教への信仰によって得られるという考え方が神職の間でも広まっていたこと。
2 祭主職は京に在住し、伊勢とを往復する生活を送っていたため、現生利益を求める密教とか、極楽成仏を約束する阿弥陀信仰といった、最先端の仏教についてよく知りうる立場だったこと。
3 生や死とは何かについて、また、迷いから逃れ、悟りを得る手段について、仏教は体系化された具体的な理論(お経)と実践(仏事)を有しており、素朴な神事に比べて魅力的な(説得力がある)信仰と思われた。
宗教学者の伊藤聡さんは、この永頼祭主による蓮台寺建立について
「この説話は十一世紀当時の伊勢神宮の神官が直面していた苦悩をよく示している。彼らは、自らの現当二世における救済と、神宮のしきたりによって引き裂かれていたのだ」と述べています。(「神道とは何か」中公新書)
これが端的に永頼祭主の心境を代弁しているのでしょう。
蓮台寺を皮切りに、祭主を始め、内宮や外宮の禰宜(高級神職)らによる各地の寺への納経や寄進、自らの氏寺の建立、さらには出家は相次ぐようになります。
そして、このような伊勢神宮と仏教の融合は、平安末期から鎌倉、室町、そして戦国時代にかけて一層深まっていき、明治時代になる直前まで伊勢(宇治山田)の至る場所で神仏習合はごく普通に見られたのです。
Unlike the present day, Ise Jingu around the 10th century, ordinary people were not allowed to offer prayers.
Because Ise jingu is the place to pray for the prosperity of the Emperor and the State, people other than the Emperor could not pray for themselves.
This is the same for the priests, it was for Buddhist temples to pray for peace after the death of individual priests and prosperity of descendants.
Oonakatomi-Nagayori who built Rendaiji was a devout Buddhist while being a priest.
In order to set up a temple, he continued to pray for Amaterasu-Oomikami, the Deity of Ise Jingu, to get forgiveness for three days.
And he saw the dream of the golden Kannon from the Ise Jingu and was convinced that he got the forgiveness of Amaterasu-Oomikami.
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