2019年2月24日日曜日

伊勢大神宮寺であった逢鹿瀬寺とは?

神社や神宮を災いから護持するため、あるいは神威をいっそう強めるため、神殿のすぐ近くに仏教寺院が建てられている例は全国各地に見られます。「神仏習合」と呼ばれる信仰形態の典型例であり、神話に起源を持ち、日本で最も高貴な神社である伊勢神宮にも、このようなお寺が建てられていた時代がありました。

伊勢神宮を守護する「神宮寺」について最も古い記録は、8世紀の終わり(平安時代の初期に当たる)に作られた国史書である「続日本紀」(しょくにほんぎ)にある次のような記事です。

766年(天平神護2年)7月23日
 称徳天皇が使者を派遣して、伊勢大神宮の寺に丈六仏を造らせた。

ちなみに「丈六仏」とは仏像の大きさの規格で、高さが一丈六尺(約5m)ある仏像という意味です。この当時、丈六仏が造られるのは非常に地位が高い大寺だけなので、伊勢神宮は天皇が守護仏の建立を命令するほど重視されていた証拠とも言えます。

この出来事は伊勢神宮の執務日誌であった「大神宮諸雑事記」にも記録があります。
これによると、767年(神護景雲元年)10月に、逢鹿瀬寺(おおがせでら)を大神宮寺とするよう天皇の命令がありました。同年11月には、(伊勢神宮の)月次祭とは別に勅使を派遣して、逢鹿瀬寺を大神宮寺とするよう伊勢神宮へ伝えた、という記事もあります。

この逢鹿瀬寺とは、現在の三重県多気郡(たきぐん)多気町の逢鹿瀬地区にあった逢鹿瀬廃寺であると考えられています。周囲を発掘したところ、奈良時代後期のものと見られる瓦などが出土しており、壮麗な伽藍を持つ大寺であったようです。


しかし、この伊勢神宮寺や丈六仏はいわば朝廷の命令であり、伊勢神宮の神職たちが快く受け入れていたわけではなさそうです。
逢鹿瀬地区は宮川沿いの高台にある集落で、下流にあたる伊勢神宮には舟で容易にアクセスできますが、直線距離にして十数キロも離れています。神社と隣接しているような一般的な神宮寺とはまったくイメージが異なります。


おそらく伊勢神宮側としては仏教の影響を受けないよう、なるべく神域から離れた場所に建立させたかった(この当時のことですから、朝廷が伊勢の細かな地理関係までは知らなかったでしょう)ものと思われます。伊勢神宮と逢鹿瀬寺の関係は必ずしも良好ではなかったのです。


そして実際に、逢鹿瀬寺は775年(宝亀6年)に早くも廃寺になってしまいます。
奈良の大仏を建立した聖武天皇の娘であり、自らも熱心な仏教徒であった称徳天皇が770年に崩御すると、その政治姿勢に批判的であった一派によって朝廷の仏教重視政策は放棄されます。称徳天皇に重用されていた僧・道鏡の失脚などが象徴的です。
こうした流れの中で逢鹿瀬寺は後ろ盾を失い、存続できなくなってしまったのでした。

In the 8th century, in order to protect the Ise Jingu in the power of Buddhism, the Emperor ordered as a big temple to be built.
This was a typical example of Shinto and Buddhism studies, which is a view of Japanese religion.
But the priests of Ise Shrine did not like their deity being protected by Buddhism transmitted from India.
As a result of the political change, this temple died out.

0 件のコメント:

コメントを投稿

「MYひしゃく」でコロナ対策!?

  伊勢神宮・内宮の近くにある神宮会館で、参宮用の柄杓(ひしゃく)を販売していると聞いたので行ってみました。神宮会館は伊勢神宮崇敬会なる信徒団体が運営している宿泊施設で、私が子供のころは確か会員制で古色蒼然とした建物のホテルでしたが、20年ほど前に全面改築され、現在は誰でも泊まれ...