明治維新政府による王政復古、祭政一致という施政方針により、伊勢神宮の鳥居前町であった宇治山田(現在の三重県伊勢市中心部に当たる)でも大規模な廃仏毀釈が強行されました。
大浜騒動とは、三河國大浜(現在の愛知県碧南市)でこの廃仏毀釈に仏教徒たちが反対した騒動ですが、伊勢神宮と伊勢湾をはさんだ対岸のこの大浜とは、切っても切れない関係にあります。
伊勢神宮は、春日大社、祇園社(八坂神社)、石清水八幡宮、などといった神社に比べると、比較的、神仏の隔離が厳格に行なわれていました。しかし中世以来の日本の社会常識であった神仏習合思想から一人逃れられたはずもなく、実態として伊勢神宮でも仏教との混淆は進んでおり、宇治と山田の街には江戸時代末期の安政2年(1855年)には120ヶ寺が存在しており、さらに江戸時代初期(1666年)に遡ると、何と371もの寺院があったことが宇治山田史に記録されています。
これは当時の宇治山田の都市規模から考えてもほとんど信じがたい膨大な数字です。この中にはおそらく、勧進僧尼や修験僧、山伏といった民間信仰に近い仏教者が守っていた小さなお堂や祈祷所なども多数含まれていたものと推測されています。
歴史学者の萩原龍夫氏によれば、宇治山田の寺院は「その大半は明確な由緒を有していないのであり、京都や大和地方の寺院と異なり、古代以来の伝統を明示するものは実に少なく、かくて大半が中世における神仏融合の風潮の進展の影響下に族生したものと断定せざるを得ない」とのことです。
由緒はともかく、これらの寺院の中には伊勢神宮との深い関係、つまり伊勢神宮のために仏事(法楽)を行う神宮寺を名乗り、大きな伽藍を持ち隆盛を誇ったものも多数ありました。三河大浜と関係が深い菩提山寺(菩提山神宮寺)もその一つで、寺伝では奈良時代に聖武天皇の命により伊勢神宮・内宮近くの五十鈴川のほとり(現在三重県営陸上競技場や伊勢市の下水処理施設がある付近)に建立されたとのことだそうです。
その後一時的に寺勢は衰退したものの、平安時代末期の文治年間には良仁上人という方が再興し、菩提山神宮寺の名は広く知られるようになっていきます。江戸時代中期の参宮ガイドブックである「伊勢参宮名所図会」によると、本堂のご本尊は丈六阿弥陀仏坐像で、ほかに方丈、仁王門、曼荼羅石などがありますが、金堂や大師堂、多宝塔などは火災で失われたと書かれています。
このご本尊の阿弥陀仏は、続日本紀に記述がある称徳天皇の勅命によって伊勢神宮に造立された丈六仏であるとされ、内宮の参詣者はこの菩提山寺にも立ち寄っていくことが少なくなかったようです。
ところが明治初年、明治新政府から度会府を通じて廃仏毀釈と伊勢神宮改革の命令が下ります。慶光院、常明寺、光明寺、法楽舎など多くの寺院と共に菩提山寺も廃寺となり、お堂は破却され、本尊はじめ仏像や仏具もすべて処分されることになりました。
(現在の神宮寺跡地)
これを伝え聞いたのが、三河國大浜から伊勢國松坂に商用に来ていた角谷大十という商人でした。熱心な仏教徒だった彼は他の門徒と共に、大浜にあった南面山海徳寺・寂空上人の支援を受けて、菩提山寺の本尊を含む60余体の破却寸前だった仏像や仏具を購入し、舟で大浜に運んだのです。
(つづく)
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