伊勢神宮・外宮(げくう)前から旧参宮街道(古市街道)のこの場所までおよそ30分です。
お杉お玉の石碑を過ぎ、さらに尾部坂の登りは続きます。
坂を登りきると交差点(三叉路)になっています。見通しが悪いので車や自転車に注意が必要です。今来た坂を見下ろすとこんな感じ。
この三叉路を左(上の写真では右方向に当たる)にしばらく行くと、江戸時代まで伊勢(宇治山田)で有数の大寺院だった常明寺の跡があります。ここは現在、大和からこの伊勢へ天照大神をお連れしたという伝説上の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)の墳墓とされる古墳が残っています。常明寺についてはまた別の機会に詳しくご案内します。
先に進むと、古市街道の由来となった宇治山田で最大の繁華街、歓楽街であった古市のエリアに入っていきます。
高名な神社仏閣の近くには遊郭が隣接しているケースが多いですが、古市もまさにそうで、お伊勢参りの参詣者が精進落としのどんちゃん騒ぎをする場所だったようです。
前回も書いたように、古市は馬の背のような細長い山の尾根づたいに道があり、その両側に建物が建ち並んでいます。下界からは坂を登って来なくてはならず、ある種の別世界感があったのだと思います。
最盛期(江戸時代中期)には数十軒もの遊郭があり、1000人近くもの遊女がひしめいていました。大きな芝居小屋もあり、いくつもの茶店や商店、旅籠が軒を連ねていました。
道沿いにはかつての繁栄を偲ばせる石碑がいくつも建っています。
この油屋は、備前屋、杉本屋と並んで古市の三大妓楼といわれていました。寛政8年(1796年)に実際に起こった痴情殺人である「油屋騒動」は多くの遊興客で賑わう中での凶行だったため、たちまち噂が全国に持ち帰られて広まり、この事件を脚色した「伊勢音頭恋寝刃」という歌舞伎は江戸、上方で大ヒットしました。
このように全国に名をとどろかせた古市ですが、明治になり伊勢神宮が政府の管理の国家神道となると、物見遊山としてのお伊勢参りは不謹慎と考えられるようになってきます。山の上にある地形は馬車通行に適さなかったこともあって新たに迂回路が設けられ、明治中期には市電が開通したせいで古市にやってくる客は激減しました。
この間、多くの妓楼は廃業し、昭和20年の伊勢大空襲によって大廈高楼のほとんどが焼失しました。
高度成長期には周囲の都市化も進み、かつての面影はまったく失われて今に至ります。油屋の跡地も線路(近鉄)の開通によって削られてしまいました。
例外的にほぼ唯一現存する旅籠が、油屋跡を過ぎて数分のところにある麻吉(あさきち)旅館です。
山の斜面に建っているため木造ながら6階建てという大きな旅館で、国登録有形文化財にもなっています。もちろん現在でも宿泊が可能です。
麻吉旅館を過ぎると、寂照寺というお寺があります。古市にも多くの仏閣があり、そのほとんどは明治初期に廃寺になりましたが、寂照寺はその後復活し、高名な画僧であった月僊(げっせん)上人の偉業を今に伝えています。
寂照寺と月僊についても、また別の機会に詳しく触れることにしましょう。
ここを過ぎたあたりから古市街道はもともとの江戸時代サイズの道幅に急に狭まります。
普通乗用車がやっと通れるほどですが、路線バスも走っているので歩行には十分気を付けてください。
小田橋から30分弱、外宮からは1時間ほどで、伊勢市立伊勢古市参宮街道資料館に着きます。ここはぜひ、見ていってほしいと思います。(入館無料)
大火や戦災で多くを失った古市ですが、華やかな伊勢音頭の踊りを描いた浮世絵や、芝居小屋で使われた歌舞伎の衣装、遊郭で使われた豪華な皿や酒器など、貴重な資料が展示されています。遊郭という暗いイメージの一方で、謡曲、芝居、ファッションなどで古市は最高峰、最先端の流行発信地でした。
伊勢古市参宮街道資料館の公式ホームページ http://www.amigo.ne.jp/~furuichi/
歩いてきたルートはこちらです。
(つづく)
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