般若寺は飛鳥時代に高句麗の僧・慧潅によって開創され、奈良時代になると聖武天皇の勅願によって整備が進み、般若寺と命名されたという古刹で、今では「コスモスのお寺」としても有名です。
この日もコスモスがまさしく満開を迎えており、たくさんの参詣客で賑わっていました。
般若寺と伊勢神宮。
一見するところ関連は薄いように思われるかもしれませんが、この二か所には、共通するある重要なキーパーソンが存在していました。
それが鎌倉時代後期、14世紀に活躍した叡尊(えいぞん)という高僧です。
この時代の仏教界は、中国から新しく禅宗が伝わり、平安時代以来の密教や浄土信仰はさらに発展して、法然や親鸞、日蓮といった改革者が現れました。しかしそれと同時に、南都六宗と呼ばれるような奈良時代から続く教派においてもさまざまな改革者が現れました。その代表的な一人が叡尊(えいぞん、えいそん)です。
叡尊は一言でいえば、腐敗堕落がはびこっていた既存の仏教界にあって、厳格な戒律の復興を強く唱え、かつ実践した僧です。
彼は戒律を重視した真言律宗という教派を創設し、病人や貧者の救済などの慈善活動に従事し、身分の貴賤を問わず仏教への信仰が篤い人々には自ら戒律を授けました。
こうした姿勢は多くの民衆だけでなく為政者からも支持を得るところとなり、次第に大きく成長した真言律宗の教団は、この時代までに寺勢が衰退してしまっていた各地の由緒ある寺院を次々と再興していきました。
このように叡尊教団によって再興された代表的な寺の一つが、ここ般若寺です。
叡尊はまた伊勢神宮への崇敬も篤く、計3回、弟子たちと共に伊勢神宮を参拝しています。
ちょうどこのころ、日本を襲った国難が元寇です。
朝廷は各地の神社仏閣に対して敵国降伏のための祈祷を命じましたが、叡尊教団も元軍の退散を願って伊勢神宮へ祈祷を行うこととなり、大般若経の転読を奉納したと伝えられています。
叡尊は伊勢神宮の神宮寺として法楽(仏事)の本拠地となる弘正寺を、内宮のある宇治の地に創建しました(実際はこの弘正寺も、荒廃していた寺を新たに再興したものと考えられています)。
日本仏教に偉大な足跡を残した叡尊は、1290年(正応3年)に死去しました。享年90才。当時としては大変な長命だったようです。
死後、生前の精力的な仏教改革と慈善活動が評価され、伏見上皇から「興正菩薩」という菩薩号を贈られました。
残念ながら伊勢神宮における真言律宗の一大拠点であった弘正寺も、戦国時代など社会混乱を経る間にすっかり衰退してしまい、江戸時代頃にはかなり荒廃してしまっていたようです。
そして、伊勢(宇治山田)における他の寺院と同様に、明治政府による廃仏毀釈政策によって廃寺となり、完全に破却されてしまいました。
■般若寺公式ホームページ http://www.hannyaji.com/
In Nara there is an old temple called Hannyaji-Temple, which was founded in the 7th century.
In the thirteenth century, Hannyaji was revived by a priest named Eizon.
Eizon cherished precepts and reformed the Japanese Buddhism world at the time. He also carried out philanthropic activities such as relief of leprosy patients, leaving a name in history.
He was also highly adored to Ise-Jingu, visited Ise-Jingu three times with his disciples and carried out mercy.
In addition, he built a temple called Koushōji-Temple in the vicinity of Ise-Jingu.
Since the policy of completely isolating Shintoism and Buddhism was taken in the 19th century, Koushōji was destroyed and now it does not exist.
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