2019年1月16日水曜日

伊勢神宮初詣者数が近年で最高に

伊勢市役所ホームページによると、2019年(平成31年)のお正月三が日の伊勢神宮への参拝者数は51万3112人となり、近年で最高となりました。天気が良く比較的暖かかったことや、平成最後の初詣になることが多くの人出を誘ったようです。
内訳を見ると内宮(ないくう)が約33万2千人、外宮(外宮)が約18万1千人で、圧倒的多数は内宮が占めていますが、これもここ3か年を見ると差が縮まっており、外宮の参拝者数の伸び率が高くなっています。

また、2018年(平成30年)通年の参拝者数は850万5253人(内訳は内宮562万1645人、外宮は288万3608人)となり、850万人台はかろうじて超えたものの17年に比べて約3%の減少となりました。
注目されていた外国人参拝者数は10万1446人となり、前年比でやはり約3%の減となりました。

伊勢神宮の参拝者数は、神宮司庁の調査を基に伊勢市が毎月ホームページに掲載しています。リンクはこちらです。


The number of visitors to Ise Grand Shrine on the New Year's three day in 2019 reached 513,112, the highest in recent years.
It was influenced that the weather was good and Emperor Heisei abandoned in May.
Also, the total number of worshipers in 2018 was 8.55 million, declining by about 3% compared to 2017.
Among them, the number of foreign worshipers was 100,446, a decrease of about 3% again from the previous year.

2019年1月14日月曜日

“”伊勢「国民総参宮」のぼり旗“”問題

官民共同で設立された御大礼奉祝委員会(会長 伊勢市長)が作製した「平成感謝 国民総参宮」というのぼり旗が市内各所に立てられたものの、伊勢市役所前に設置されたそれが行政の政教分離原則に反するとして急遽撤去されました。
中日新聞などが報じたもので、市役所以外の場所に立てていたのぼり旗も、1月8日までにすべて撤去されたとのことです。

御大礼奉祝委員会は、今年4月末で現天皇陛下が退位し皇太子殿下が新たに即位されることへの感謝と奉祝のため伊勢市と伊勢商工会議所、伊勢小俣町商工会、伊勢市総連合自治会、伊勢市観光協会により結成された官民共同の組織。
中日新聞の記事によると2018年度の委員会の予算は382万円ですが、伊勢市は298万円を支出しており、これは全体予算の8割に当たります。

 この、のぼり旗撤去の発端は、1月8日の伊勢市長の定例記者会見の席上、記者から市役所前に立てていた6本が「政教分離に反するのではないか」と指摘されたことでした。
それを受けた鈴木市長が「国民総参宮の文字は奉祝委の熱い思いが表現されたものであり、観光誘客につながればとの思いから設置を許可したが、不適切だった」として撤去を指示したものだそうです。(中日新聞 駅前など53本も撤去 伊勢「国民総参宮」のぼり旗 1月10日付け)

 一方で、伊勢新聞は「伊勢を紹介する上で伊勢神宮は欠かせない存在」であり、のぼり旗に政教分離のおそれがあると判断されたことについて、伊勢市役所の観光部門に動揺が走っていることを報じています。(伊勢新聞 伊勢・参宮のぼり旗撤去 改元控え揺れる市観光部 1月14日付け)

 伊勢市は伊勢神宮のお膝下であり、夏の恒例行事である伊勢神宮奉納全国花火大会など「伊勢神宮」や「奉納」といったコンセプトの公営行事は少なくありません。市民の多くも、こうしたことに違和感は感じていないでしょうし、のぼり旗の件で危惧されるように、意に沿わない伊勢神宮への参拝の誘導といった意図はまったくないことも大多数の市民にとっては自明のことかと思います。

 しかし、グローバル化が進む中で、行政が宗教施設や宗教的行事に関わるべきかは問い直されつつあることも確かです。行政も含めた関係者は、過度に委縮することなく、信仰の自由は誰にとっても保証されるべきものなことは前提としたうえで、伊勢神宮への崇敬を地域の活性化につなげていく方策を議論していくべきでしょう。

2019年1月6日日曜日

月僊金のこと

(承前)名古屋市博物館「画僧 月僊」に行ってきました(2019年1月5日)

伊勢(山田)古市にある浄土宗のお寺、栄松山寂照寺の住持となった月僊(げっせん)は、すでに画家としても名が広く知られていたことから、仏画や風景画、仙人図などを人々の求めに応じて描き、販売しました。


絵画のような芸術作品の値段決めは、現代でも難しいものです。きっと当時もそうだったでしょうが、月僊はあらかじめ絵の値段を相手に明示し、きっちりと代価を得ていました。こうした金銭にこだわる姿勢が批判されたりもしたようですが、ともかく月僊は蓄財を続け、1800年(寛政12年)から1803年(享和3年)にかけて荒廃していた寂照寺の山門や本堂、庫裏、経蔵を修復しました。ちなみに山門は国の登録有形文化財になっています。


寺の再興のほか道普請といった公共事業にも資金を提供し、月僊と寂照寺の名はますます高まりますが、特筆すべきなのは「月僊金」という社会福祉のための基金を造成したことではないでしょうか。月僊は文化年間(1804~1809年頃)に徳川幕府の代官所であった山田奉行に1500両を寄託。その運用利息で宇治山田近郷の貧しい人々を救済するよう要請したのです。
物価変動もあるため一概に言えないものの、一両の現在価値はおおよそ数万円と考えられます。1500両は約1億円に当たり、江戸時代の金利は13~15%だったそうですが、物価が比較的安かった当時は、運用益で生活資金の貸し付けが十分に賄えたのでしょう。


驚くべきことにこの月僊金は、明治維新を迎えた後も新政府(宇治山田市)に移管されて存続します。大正時代には、寂照寺で得度した、いわば月僊の末流につながる僧の清水法隆師が、月僊金も原資の一部にして社会福祉団体である明照浄済会を設立しています。
明照浄済会は今も事業活動を続けていますし、伊勢市には「月僊金復興社会事業基金」が今も存在しています。
月僊は、まさに仏都伊勢を代表する偉人だと言えるでしょう。
ちなみに月僊は1809年(文化6年)1月に没したので、今年は210年忌に当たります。

2019年1月5日土曜日

名古屋市博物館「画僧 月僊」に行ってきました

名古屋市博物館で1月27日(日)まで開かれている特別展覧会 画僧 月僊(げっせん)に行ってきました。
月僊は江戸時代の中期に活躍した僧侶です。江戸・増上寺での修業のかたわら水墨画の大家だった桜井雪館に師事し、その後は京都で円山応挙の画風にも影響を受つつ、独自の画風を確立。
釈迦涅槃図などの仏画のほか、風景画や古代中国の仙人を描いた仙人図など多数の絵を描きました。


ただ、応挙や伊藤若冲といったビッグネームほどの知名度はないと思うので、博物館もガラガラだろうなと思ったら、さにあらず。


意外にもと言うか、多くのお客さんが来ていたので流石は大都会名古屋だとちょっとびっくりしました。月僊の絵画の詳しい案内は、名古屋市博物館のホームページに紹介されています。(リンクはこちら

では絵心のない私がなぜ月僊展に行ったかといえば、この月僊は仏都伊勢を語るうえで欠かせない歴史上の著名人だったからです。
すでに画僧として高名だった月僊は、1774年(安永3年)、34歳の時に伊勢の古市にあった寂照寺の住職となりました。
寂照寺は豊臣秀頼の正室であった千姫(徳川家康の孫)の菩提を弔うため、1677年に伊勢神宮に近いこの地に創建された、知恩院の流れをくむ浄土宗のお寺です。しかし、100年近く経つ間に寺勢は衰えてしまい、その再興のために月僊が派遣されたのです。
月僊は多くの参宮客が通る古市の地の利を生かし、人々の求めに応じて多くの絵を描きました。それを売って財を蓄え、荒廃していた伽藍の修復に当たったのです。


つづく

2019年1月4日金曜日

饗土橋姫神社と宇治橋供養塔

冬至の前後は伊勢神宮・内宮の宇治橋のほぼ正面から日の出を拝むことができます。
鳥居の中央から太陽が昇ってくるのは感動的で、神秘的でもあって、伊勢神宮を代表する光景の一つですが、実際に日の出の時間(だいたい午前7時過ぎ)に行ってみると、このシーンを写真に収めようと数百人のカメラマンや参詣客が陣取っていて大変な騒ぎです。


早朝の参拝者も引きも切らないので、テレビで目にするような閑静な宇治橋の姿はなかなか撮影できません。まあだいたい、この写真のような感じです。
しかし、このブログでは、宇治橋の近くにあるおすすめスポットを紹介したいと思います。
一つ目は饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)です。
宇治橋を渡った先(内宮の神苑)ではなく、反対側、つまり宇治橋前のロータリー側の駐車場(A1、A2駐車場)の奥の林の中に鎮座している小さな神社です。


祭神は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)。つまり宇治橋を守護する神様です。
饗土(あえど)とは、疫神や悪霊といった悪しきものの侵入を防ぐため、饗応のお祭りをする場所という意味だそうです。
ただし、創建の年代ははっきりしておらず、1477年(文明9年)に宇治橋が架け替えられた時にこの饗土橋姫神社も建て替えられたという記録があるため、遅くとも15世紀中ごろには祀られていたものとみられます。
宇治橋が架け替えられると渡始式という神事が行われますが、その場所がここ饗土橋姫神社です。

二つ目はややマニアックなスポットですが、饗土橋姫神社から歩いて10分ほどの今北山墓地にある、宇治橋供養塔です。
供養というと何か縁起でもない感じですが、神仏習合が伊勢神宮にも及んでいた室町時代に、新たに架け替えられた宇治橋が洪水で流出したりしないよう、橋の安全に仏の加護を受けられるよう建立された石塔のことです。

室町時代後半の16世紀は戦国争乱の世の中であり、政治的混乱の中で伊勢神宮の存在も次第に忘れられ、20年に一度斎行されるべき式年遷宮も中断の止むなきに至っていました。
宇治橋も朽ち果てたまま長年架け替えられこともなく放置されていましたが、その再建に尽力したのが熊野比丘尼であった守悦(しゅえつ)という尼僧でした。
この当時、橋は境界をつなぐという意味で霊的な意義を持つ建造物と考えられており、戦乱により橋の管理まで手が回らない領主に代わって、仏教者が勧進(寄付を募ること)を行って橋の維持管理をしたことは全国各地で見られました。守悦尼もこうした勧進比丘尼の一人と考えられます。
守悦尼は伊勢神宮の許可を得て全国で勧進を行い、ついに宇治橋を再建したのでした。1505年(永正2年)のことです。この功績により守悦は上人号と紫衣を許されます。

伊勢神宮の再興を仏教者(それも女性である尼)が主導するのは現代の目から見ると奇妙に思えますが、この時代は神仏習合は伊勢でも当然のように行われており、伊勢神宮周辺には数多くの寺(実態としてその多くは、僧尼や山伏が住む「穀屋寺」と呼ばれるお堂)があり、勧進が盛んに行われていました。

守悦尼の後継者である清順尼も諸国を勧進して1549年(天文18年)に宇治橋を造営、さらに100年以上も途絶えていた式年遷宮を再興したことは有名な話です。(この功で清順尼には慶光院という院号が許されました。慶光院は尼寺として明治まで存続し、現在、お寺は神宮祭主の職舎になっています。)


さてこの宇治橋供養塔は1580年(天正8年)に宇治橋のそばに建立されたもので、高さが2mほどもある宝篋印塔です。
伊勢市役所のホームページによると「宇治橋が竣工した時、橋供養が行われ、1,500人余の僧が法華経2万部を修誦しました。このとき宇治橋の傍らに建立されたのがこの塔です。」と説明があります。(リンクはこちら
しかし、伊勢文化舎発行の「宇治橋ものがたり」によれば、宇治橋は清順が造営した1549年の次は、豊臣秀吉の命により造営された1590年(天正18年)までないので、ここで言う橋供養の詳しいことは私にはよくわかりませんでした。

この供養塔、江戸時代の中頃になると儒教の影響で神仏の分離が強化されるようになり、宇治橋から別の場所に移転させられてしまったそうです。現在は伊勢市指定の有形文化財に登録されてはいるものの、前述のように一般の墓地の中に建っており、案内板や看板もまったく見当たらないという状態です。

伊勢神宮がかつては仏教的グローバリズムの価値観で位置づけられ、天皇をはじめとした統治者や一般民衆、そしてほかならぬ伊勢神宮の神職(神官)たちにとってもコンセンサスだったのは歴史的な史実であり、それに思いを馳せるよすがへのPRが不足しているのは残念なことです。(供養塔の場所はだいたいこのあたり。お参りは自由にできますが、他の墓参者に迷惑にならないようにお願いします。)

2019年1月1日火曜日

2019年 外宮へ初詣

2019年が明けました。伊勢は寒さも厳しくなく、晴天に恵まれた穏やかな元日でした。
伊勢神宮・外宮に初詣に行きましたが、ちょうど神馬が本殿に参進するところに立ち会うことができました。


神職に手綱を曳かれ、参道を鳥居前まで歩んできた神馬は、ここでお辞儀のように2回頭を下げます。まるで本当に参拝しているように見え、周囲の参拝客からも歓声が上がりました。
神馬の参進は一の付く日(1日、11日、21日)には内宮と外宮の両宮で行われていて、元日に限ったことではありませんが、堂々とした白馬の姿を見て、何だかお正月早々、トクした気分になりました。

「MYひしゃく」でコロナ対策!?

  伊勢神宮・内宮の近くにある神宮会館で、参宮用の柄杓(ひしゃく)を販売していると聞いたので行ってみました。神宮会館は伊勢神宮崇敬会なる信徒団体が運営している宿泊施設で、私が子供のころは確か会員制で古色蒼然とした建物のホテルでしたが、20年ほど前に全面改築され、現在は誰でも泊まれ...