鳥居の中央から太陽が昇ってくるのは感動的で、神秘的でもあって、伊勢神宮を代表する光景の一つですが、実際に日の出の時間(だいたい午前7時過ぎ)に行ってみると、このシーンを写真に収めようと数百人のカメラマンや参詣客が陣取っていて大変な騒ぎです。
早朝の参拝者も引きも切らないので、テレビで目にするような閑静な宇治橋の姿はなかなか撮影できません。まあだいたい、この写真のような感じです。
しかし、このブログでは、宇治橋の近くにあるおすすめスポットを紹介したいと思います。
一つ目は饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)です。
一つ目は饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)です。
宇治橋を渡った先(内宮の神苑)ではなく、反対側、つまり宇治橋前のロータリー側の駐車場(A1、A2駐車場)の奥の林の中に鎮座している小さな神社です。
祭神は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)。つまり宇治橋を守護する神様です。
饗土(あえど)とは、疫神や悪霊といった悪しきものの侵入を防ぐため、饗応のお祭りをする場所という意味だそうです。
ただし、創建の年代ははっきりしておらず、1477年(文明9年)に宇治橋が架け替えられた時にこの饗土橋姫神社も建て替えられたという記録があるため、遅くとも15世紀中ごろには祀られていたものとみられます。
宇治橋が架け替えられると渡始式という神事が行われますが、その場所がここ饗土橋姫神社です。
宇治橋が架け替えられると渡始式という神事が行われますが、その場所がここ饗土橋姫神社です。
二つ目はややマニアックなスポットですが、饗土橋姫神社から歩いて10分ほどの今北山墓地にある、宇治橋供養塔です。
供養というと何か縁起でもない感じですが、神仏習合が伊勢神宮にも及んでいた室町時代に、新たに架け替えられた宇治橋が洪水で流出したりしないよう、橋の安全に仏の加護を受けられるよう建立された石塔のことです。
室町時代後半の16世紀は戦国争乱の世の中であり、政治的混乱の中で伊勢神宮の存在も次第に忘れられ、20年に一度斎行されるべき式年遷宮も中断の止むなきに至っていました。
宇治橋も朽ち果てたまま長年架け替えられこともなく放置されていましたが、その再建に尽力したのが熊野比丘尼であった守悦(しゅえつ)という尼僧でした。
室町時代後半の16世紀は戦国争乱の世の中であり、政治的混乱の中で伊勢神宮の存在も次第に忘れられ、20年に一度斎行されるべき式年遷宮も中断の止むなきに至っていました。
宇治橋も朽ち果てたまま長年架け替えられこともなく放置されていましたが、その再建に尽力したのが熊野比丘尼であった守悦(しゅえつ)という尼僧でした。
この当時、橋は境界をつなぐという意味で霊的な意義を持つ建造物と考えられており、戦乱により橋の管理まで手が回らない領主に代わって、仏教者が勧進(寄付を募ること)を行って橋の維持管理をしたことは全国各地で見られました。守悦尼もこうした勧進比丘尼の一人と考えられます。
守悦尼は伊勢神宮の許可を得て全国で勧進を行い、ついに宇治橋を再建したのでした。1505年(永正2年)のことです。この功績により守悦は上人号と紫衣を許されます。
守悦尼は伊勢神宮の許可を得て全国で勧進を行い、ついに宇治橋を再建したのでした。1505年(永正2年)のことです。この功績により守悦は上人号と紫衣を許されます。
伊勢神宮の再興を仏教者(それも女性である尼)が主導するのは現代の目から見ると奇妙に思えますが、この時代は神仏習合は伊勢でも当然のように行われており、伊勢神宮周辺には数多くの寺(実態としてその多くは、僧尼や山伏が住む「穀屋寺」と呼ばれるお堂)があり、勧進が盛んに行われていました。
守悦尼の後継者である清順尼も諸国を勧進して1549年(天文18年)に宇治橋を造営、さらに100年以上も途絶えていた式年遷宮を再興したことは有名な話です。(この功で清順尼には慶光院という院号が許されました。慶光院は尼寺として明治まで存続し、現在、お寺は神宮祭主の職舎になっています。)
さてこの宇治橋供養塔は1580年(天正8年)に宇治橋のそばに建立されたもので、高さが2mほどもある宝篋印塔です。
伊勢市役所のホームページによると「宇治橋が竣工した時、橋供養が行われ、1,500人余の僧が法華経2万部を修誦しました。このとき宇治橋の傍らに建立されたのがこの塔です。」と説明があります。(リンクはこちら)
しかし、伊勢文化舎発行の「宇治橋ものがたり」によれば、宇治橋は清順が造営した1549年の次は、豊臣秀吉の命により造営された1590年(天正18年)までないので、ここで言う橋供養の詳しいことは私にはよくわかりませんでした。
この供養塔、江戸時代の中頃になると儒教の影響で神仏の分離が強化されるようになり、宇治橋から別の場所に移転させられてしまったそうです。現在は伊勢市指定の有形文化財に登録されてはいるものの、前述のように一般の墓地の中に建っており、案内板や看板もまったく見当たらないという状態です。
伊勢神宮がかつては仏教的グローバリズムの価値観で位置づけられ、天皇をはじめとした統治者や一般民衆、そしてほかならぬ伊勢神宮の神職(神官)たちにとってもコンセンサスだったのは歴史的な史実であり、それに思いを馳せるよすがへのPRが不足しているのは残念なことです。(供養塔の場所はだいたいこのあたり。お参りは自由にできますが、他の墓参者に迷惑にならないようにお願いします。)
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