2020年11月27日金曜日

「MYひしゃく」でコロナ対策!?

  伊勢神宮・内宮の近くにある神宮会館で、参宮用の柄杓(ひしゃく)を販売していると聞いたので行ってみました。神宮会館は伊勢神宮崇敬会なる信徒団体が運営している宿泊施設で、私が子供のころは確か会員制で古色蒼然とした建物のホテルでしたが、20年ほど前に全面改築され、現在は誰でも泊まれるちょっと高級で明るい感じのホテルです。

 お土産コーナーも充実していて、お菓子や縁起物、朱印帳、小物などなど伊勢ならではのものを多く置いていますが、さすがに柄杓を売っていることは知りませんでした。

 スタッフに尋ねたら丁寧に案内してくれ、1本1000円なのですが、立派な紙袋に入れていただきました。柄杓自体はかなり厳重に包装されています。


 袋から出すとこんな感じです。カタチは伊勢神宮とか、ほかの神社仏閣の御手洗場でもよくよく見かける普通の木製のひしゃくです。ぷーんとヒノキのいい香りがします。


 ただ、全体につくりは小ぶりで、カップに当たる部分の直径は約7センチ、柄(持ち手)の長さは約22センチで、全長30センチ足らずです。おそらく本物(御手洗場に置いてあるような)は40センチくらいあるので、名前の通り個人が参拝用に持ち運ぶ「マイひしゃく」、今風に言えばモバイル専用ひしゃくなのでしょう。


 現在、伊勢神宮を始め各地の神社仏閣では新型コロナウイルス対策のために御手洗場は閉鎖されたり、ひしゃくが撤去されたシャワー式になったりしています。このMYひしゃくを持っていけば、きっと注目度抜群でしょう。


 ひしゃくに同封されていたパンフレットによると、江戸時代に流行した「お伊勢参り(おかげ参り)」で伊勢を目指した旅人は、いつしかひしゃくを携えるようになりました。ひしゃくはお伊勢参りの目印となり、これによって道中でいろいろな人から助けを得られたそうです。

 これは確かな史実で、伊勢参りの賑わいを描いた浮世絵には伊勢講(いせこう 同じ村から一緒に伊勢参宮を行うグループ)が揃いの装束を着て、皆が帯にひしゃくを挟んで歩く様子が多く描かれています。おかげ参りはまったくの無一文で、いわば道中の人々からの施しだけで伊勢にやって来た人も決して少なくなかったのですが、その人たちの身元証明となったのが伊勢参宮を表す、こうしたひしゃくだったのです。

 さーて、自分もこのひしゃくを持って、伊勢神宮にお参りしてこようっと。

●神宮会館ではこのMYひしゃくを通信販売もしています。

2020年11月4日水曜日

旧慶光院客殿の一般公開に行ってきました

  伊勢市宇治のおはらい町通り、内宮の宇治橋とも目と鼻の距離にある、旧慶光院客殿が文化の日に一般公開されたので行ってきました。

 何となく古い町並みが残っていそうなイメージがする伊勢(宇治山田)ですが、度重なる大火や太平洋戦争時の空襲などで歴史的な建物の多くは焼失してしまっています。この旧慶光院客殿は江戸時代初期の寛永年間に建築されたもので、書院造の特色を残す非常に貴重な存在です。(ちなみに国指定重要文化財です。)




 慶光院というのはもともと尼寺で、臨済宗に属していましたが本山の支配は受けずに独立しており、本尊はなく、読経もしない、という極めて変わったお寺でした。これは言うまでもなく、代々の慶光院の住持(住職)が、宇治橋の架け替えや式年遷宮の再興に深くかかわった 〜はっきり言えば、資金を全国から勧進して集めてこれらを成功させた〜 という、伊勢神宮存続の大恩人的な存在であるからにほかなりません。

 室町時代後期に現れた守悦(しゅえつ)という尼が、世が戦乱に明け暮れる中で荒廃し、経済的にも疲弊していた伊勢神宮の現状を嘆いて勧進を始めたのが慶光院の創生のようです。
 つまり、慶光院は奈良の東大寺や京都の東寺のように、誰がいつ、何のために建立したかが記録で明らかに残っているお寺なのではなく、諸国を勧進して歩く熊野比丘尼の一員だったと思われる、守悦のような民間信仰に近い宗教者の内宮での活動拠点が、いつの間にか自然に寺と呼ばれるようになった、というイメージだったのだと思います。

 守悦の志をついだ三代目住持の清順(せいじゅん)は勧進に成功して、1549年(天文18年)、ついに宇治橋の再建に成功します。慶光院という寺号はこの偉業に対して後奈良天皇から授かったもので、1563年(永禄6年)には外宮の式年遷宮までも成し遂げました。実に129年ぶりの再興でした。清順はさぞパワフルな女性だったのだと思います。

 清順の没後は周養、周宝、周清・・・と続き、15代目の時に明治維新を迎え、明治政府の神仏判然令、すなわち廃仏毀釈の動きを受けて廃寺となります。その後から今に至るまで、建物は伊勢神宮の祭主職舎として使用され、現在に至ります。

 さてこの日の一般公開で面白かったのは、三代目清順の出自についての解説でした。院内は撮影禁止だったので記憶だけですが、「清順は近江の豪族 山本氏の出身」と説明されていました。
 清順は、尾張の人である説(勢陽五鈴遺響など)、近江・山本氏の出とする説(慶光院旧記など)があり、最近は紀伊、現在の熊野市紀和町入鹿の出身である説(大西源一 伊勢の勧進聖と慶光院)も有力です。しかし、今回の展示では明確に山本氏説が書かれていました。

 なぜかなーと思ったのですが、次の展示で合点がいきました。
 江戸時代に入ってからの住持である周宝、周清、周長などは、なぜか就任の年齢が5歳とか7歳といった子供です。天下泰平となり、伊勢神宮に対する影響力が確立していた慶光院に、清順や周養のような女傑はもはや不要であり、肯ぜない幼女のほうが都合がよろしかったのでしょう。
 説明書きには「慶光院は、次第に周宝など歴代住持の出身家である山本家(注:これは本当らしい)の支配力が強まり、山本家による伊勢神宮への干渉も見られたので、慶光院と距離を置くために、清順以来認められてきた式年遷宮への参画が停止されるに至った。」といったようなことが書かれていました。
 これは、内心では仏教者の影響を快く思っていなかった伊勢神宮側の思惑とも合致した名目だったのでしょう。慶光院は明治まで徳川将軍家とのつながりは強く、隠然とした影響力を持ってはいましたが、遷宮に積極的にかかわる特権は失ったのでした。

 つまり、伊勢神宮による慶光院排除を正当化するためには山本家による慶光院支配が前提であり、そうすると、三代目の清順の時代から慶光院は代々山本家とかかわりが深かったのだ、つまり根っこはこの時からあったのだ、という説明にするほうが都合がいいからではないかと思ったのでした。

2019年5月9日木曜日

10連休「後」の伊勢神宮

三重県のローカル紙である伊勢新聞が、10連休の伊勢神宮 88万2000人参拝 改元効果で前年比2.2倍 と報じています。(5月8日付け)
伊勢神宮が発表した4月27日〜5月6日の参拝者数は88万2千人となり、対前年比2.2倍になったそうです。内訳は、平成最後の4日間が31万8千人で対前年比2.4倍。令和の6日間は56万3千人で2.1倍。最も多かったのは令和の元旦ともいうべき5月1日で、17万4千人(5.1倍)もの参拝者が押し寄せました。
伊勢神宮は「上皇さまへの感謝や天皇陛下の即位を祝い、神宮を訪れた人が大幅に伸びた」と分析しているそうです。

しかし、連休が明けた5月8日、夕刻の伊勢神宮・内宮はいつものような静けさが戻っていました。


5月から、伊勢神宮は午後7時まで参拝が可能になります。しかし6時を過ぎると人影はまばらで、ほとんど貸し切り状態のようになります。



日中は大混雑の神苑、そして参道もほとんど人がいません。静寂があたりを包み、日が暮れて薄暗くなっていくのは本当に神秘的です。


正宮は私一人。衛視が参拝をも守ってくれていました。
天照大神の御神徳が全身で体感できたひと時でした。

#伊勢神宮

2019年5月3日金曜日

もし現代に斎宮があったら

令和が始まりました。多くの皆さんもそうでしょうが、平和で豊かな時代であることを期待したいと思います。
伊勢神宮にも連日多くの参拝客が訪れていて、今はやりの御朱印には長蛇の列ができています。内宮、外宮で待ち時間がそれぞれ2時間近くもあり、両方の御朱印をもらうために丸一日かかってしまった、というブログも目にします。

しかし天皇の代替わりで私が思うのは、もしも21世紀に斎王制度があったら、どうなっていただろう?ということです。まったくの夢想ですが。

斎王(さいおう)とは8世紀頃に成立した古代の官制です。斎王は天皇の代替わりごとに皇女から占いによって適任者が選ばれ、都から伊勢に下向して斎宮(さいくう。伊勢神宮から10kmほど離れた場所にある。)に常駐して、天皇の代わりに(まさしく天皇の名代として)年3回の重要な祭祀に参加していました。

ある神社に対して、皇女が直々に、しかも恒常的に派遣されることは極めて異例なものであり、伊勢神宮が全国の他の神社・神宮とはまったく異なる優越的な地位にあったことの証左だったのです。

明和町ホームページより 斎王まつりの様子
斎王は内親王(天皇の嫡出の皇女、天皇の嫡男系の嫡出の皇孫女子、天皇の姉妹)から選ばれるのが原則なので、現時点で該当するのは愛子様、眞子様、佳子様の3人が候補者ということになります。しかし、選出方法は亀卜(きぼく)、つまり海亀の甲羅を焼き、入ったひび割れによって神意を図るという相当に無茶なものでした。占う人によってかなりの作為が可能だったことでしょう。

斎王に選ばれると今までの宮廷生活から隔絶され、嵯峨野にあった野宮(ののみや)で1年間、潔斎精進の生活を送ります。その後、臣下たちと共に伊勢に下向し、平安京を模して整備され「竹の都」とも呼ばれた壮麗な斎宮で、500人ほどの官吏や女官らに囲まれて、伊勢神宮の主祭神、天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕える生活したのです。都に戻れるのは、天皇の退位、崩御などがあった場合に限られました。


幸か不幸か、伊勢神宮の斎王制度は14世紀、後醍醐天皇の治世以降は行われることがなくなり、自然消滅しました。今、斎王たちが生活した竹の都こと斎宮の跡は発掘調査が進み、公園に整備されて博物館も建っています。

(関連リンク)
 明和町ホームページ  http://www.town.meiwa.mie.jp/index.html

 三重県立斎宮歴史博物館  http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/index.shtm

2019年4月15日月曜日

行幸啓による伊勢市内の交通規制と奉迎場所

4月17~19日、天皇、皇后両陛下が伊勢市を訪れ、伊勢神宮を参拝されます。4月30日の譲位を報告されるもので、天皇、皇后のお立場としては最後の地方訪問になるとみられるとのことです。
地元では奉祝ムードが膨らんでいますが、伊勢市役所が行幸啓のための市内の交通規制情報と、奉迎場所、時間等を記載したお知らせを発行しているので参考にアップしておきます。
 




なお、伊勢神宮は内宮が4月17日15時から翌18日4時半まで、外宮が4月18日8時20分から11時50分まで、一般客の参拝が停止されます。

2019年4月14日日曜日

東京で「最古の伊勢屏風」が発見される

 中日新聞(4月13日付け朝刊)によると、伊勢神宮への参詣風景を描いたものでは国内最古とされる屏風が東京都の根津美術館で発見されたそうです。
 この屏風は伊勢信仰が庶民にも定着した江戸前期(17世紀後半)の製作と推定され、一対を成す右隻と左隻のうち、右隻は名古屋市博物館が所蔵していますが、左隻については長らく行方が不明となっていました。

中日新聞 CHUNICHI Web より

 屏風は、縦が1メートル、幅が3メートルある大きなもので、名古屋市博物館蔵の右隻には、「宮川の渡し」から外宮へ至るにぎやかな門前町が描かれています。
 今回発見された左隻は、内宮への入り口となる宇治橋や、人々が参拝後に精進落としをした歓楽街、女性芸人が三味線を弾いて参詣者を楽しませた習俗などが描かれています。

 なぜこの屏風が発見されたかですが、根津美術館が特別展「尾形光琳の燕子花(かきつばた)図」の準備で館蔵品を調査する中で、表現方法が名古屋市博物館と酷似する屏風があることを確認したとのこと。
 左隻は1933年に根津美術館の礎を築いた根津嘉一郎氏が古美術商から購入した記録があり、根津美術館では名古屋市博物館から右隻の貸し出しを受け、90年ぶりに左右一対が揃った形で4月13日から展示されるそうです。

■根津美術館  ホームページ

■中日新聞 CHUNICHI Web  最古の伊勢屏風左右そろう(2019年4月13日朝刊)

2019年3月21日木曜日

江戸時代中後期の書物に見る三ツ石の記述

(承前)三ツ石騒動は沈静化するのか? 2019年3月16日
    外宮はかつて川に挟まれて建っていた 2019年3月17日

伊勢神宮・外宮にある三ツ石について書いてきました。三ツ石は古代にこの付近を流れており、現在は流れが変わってしまった宮川の派川(現在も水路として残る「豊川」)の河原の跡地を示しており、式年遷宮の際の重要神事である「川原大祓」を行う場所の目印である、というのが真相です。繰り返しになりますが、SNSで言われているようなパワースポットではありませんし、伊勢神宮当局も手をかざす行為は控えるよう訴えています。

しかし、江戸時代の伊勢神宮に関する書物などを読んでいると、しばしば三ツ石についての記述がみられます。江戸時代には全国各地から毎年数十万人から数百万人もの参宮客を迎え入れていた外宮ですが、特長ある外観の三ツ石が、参道の中にポツンとあることを不思議に思う人は少なくなかったようです。

江戸時代後期の1797年(寛政9年)に出版された、「伊勢参宮名所図会」という本があります。多くの旅人が利用した伊勢街道沿いの名所や旧跡をイラスト入りで詳しく紹介している、現代の観光ガイドブックの原点とも言える内容の本ですが、これによると

石を鼎のごとく3つ居置き、参宮の時、これを避けて踏まぬを習いとす。これは月次、神嘗祭、又は遷宮の時、御巫内人(みかんなぎうちんど 祭事に奉仕する神職のこと)が御禊を修する所なり

とあり、三ツ石は踏まないように注意すべきだという記述もあります。

また、江戸時代中期に外宮の神官であった喜早在清が著した「毎事問」という書物によると、「三石はいかなる名石ぞや」という質問に対し、

曾て(かつて)名石にあらず。これは御巫内人等、祓を修する所なるゆえに目当にて石を居置きたるなり

とあり、目印であることを断言しています。当然ながら、神様が祀ってあるなどとは書かれていませんが、由緒もろくに調べずに何でもありがたがって拝む人は江戸時代から多かったのかもしれません。

「MYひしゃく」でコロナ対策!?

  伊勢神宮・内宮の近くにある神宮会館で、参宮用の柄杓(ひしゃく)を販売していると聞いたので行ってみました。神宮会館は伊勢神宮崇敬会なる信徒団体が運営している宿泊施設で、私が子供のころは確か会員制で古色蒼然とした建物のホテルでしたが、20年ほど前に全面改築され、現在は誰でも泊まれ...