2020年11月4日水曜日

旧慶光院客殿の一般公開に行ってきました

  伊勢市宇治のおはらい町通り、内宮の宇治橋とも目と鼻の距離にある、旧慶光院客殿が文化の日に一般公開されたので行ってきました。

 何となく古い町並みが残っていそうなイメージがする伊勢(宇治山田)ですが、度重なる大火や太平洋戦争時の空襲などで歴史的な建物の多くは焼失してしまっています。この旧慶光院客殿は江戸時代初期の寛永年間に建築されたもので、書院造の特色を残す非常に貴重な存在です。(ちなみに国指定重要文化財です。)




 慶光院というのはもともと尼寺で、臨済宗に属していましたが本山の支配は受けずに独立しており、本尊はなく、読経もしない、という極めて変わったお寺でした。これは言うまでもなく、代々の慶光院の住持(住職)が、宇治橋の架け替えや式年遷宮の再興に深くかかわった 〜はっきり言えば、資金を全国から勧進して集めてこれらを成功させた〜 という、伊勢神宮存続の大恩人的な存在であるからにほかなりません。

 室町時代後期に現れた守悦(しゅえつ)という尼が、世が戦乱に明け暮れる中で荒廃し、経済的にも疲弊していた伊勢神宮の現状を嘆いて勧進を始めたのが慶光院の創生のようです。
 つまり、慶光院は奈良の東大寺や京都の東寺のように、誰がいつ、何のために建立したかが記録で明らかに残っているお寺なのではなく、諸国を勧進して歩く熊野比丘尼の一員だったと思われる、守悦のような民間信仰に近い宗教者の内宮での活動拠点が、いつの間にか自然に寺と呼ばれるようになった、というイメージだったのだと思います。

 守悦の志をついだ三代目住持の清順(せいじゅん)は勧進に成功して、1549年(天文18年)、ついに宇治橋の再建に成功します。慶光院という寺号はこの偉業に対して後奈良天皇から授かったもので、1563年(永禄6年)には外宮の式年遷宮までも成し遂げました。実に129年ぶりの再興でした。清順はさぞパワフルな女性だったのだと思います。

 清順の没後は周養、周宝、周清・・・と続き、15代目の時に明治維新を迎え、明治政府の神仏判然令、すなわち廃仏毀釈の動きを受けて廃寺となります。その後から今に至るまで、建物は伊勢神宮の祭主職舎として使用され、現在に至ります。

 さてこの日の一般公開で面白かったのは、三代目清順の出自についての解説でした。院内は撮影禁止だったので記憶だけですが、「清順は近江の豪族 山本氏の出身」と説明されていました。
 清順は、尾張の人である説(勢陽五鈴遺響など)、近江・山本氏の出とする説(慶光院旧記など)があり、最近は紀伊、現在の熊野市紀和町入鹿の出身である説(大西源一 伊勢の勧進聖と慶光院)も有力です。しかし、今回の展示では明確に山本氏説が書かれていました。

 なぜかなーと思ったのですが、次の展示で合点がいきました。
 江戸時代に入ってからの住持である周宝、周清、周長などは、なぜか就任の年齢が5歳とか7歳といった子供です。天下泰平となり、伊勢神宮に対する影響力が確立していた慶光院に、清順や周養のような女傑はもはや不要であり、肯ぜない幼女のほうが都合がよろしかったのでしょう。
 説明書きには「慶光院は、次第に周宝など歴代住持の出身家である山本家(注:これは本当らしい)の支配力が強まり、山本家による伊勢神宮への干渉も見られたので、慶光院と距離を置くために、清順以来認められてきた式年遷宮への参画が停止されるに至った。」といったようなことが書かれていました。
 これは、内心では仏教者の影響を快く思っていなかった伊勢神宮側の思惑とも合致した名目だったのでしょう。慶光院は明治まで徳川将軍家とのつながりは強く、隠然とした影響力を持ってはいましたが、遷宮に積極的にかかわる特権は失ったのでした。

 つまり、伊勢神宮による慶光院排除を正当化するためには山本家による慶光院支配が前提であり、そうすると、三代目の清順の時代から慶光院は代々山本家とかかわりが深かったのだ、つまり根っこはこの時からあったのだ、という説明にするほうが都合がいいからではないかと思ったのでした。

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