2019年3月17日日曜日

外宮はかつて川に挟まれて建っていた

前回に続いて、伊勢神宮・外宮にある三ツ石についてです。三ツ石は「川原大祓」という神事を行う場所の目印の石標であり、これ自体が信仰の対象になるものではないことを書きました。


次の問題は、なぜ「川原大祓」が川原でもないこの場所で行なわれているかということです。結論から言えば、外宮創建時の太古はこの場所に川が流れており、その後の地震など地形の変動によって現在のような陸地の姿になったということが理由のようです。

伊勢市には「宮川」という一級河川が流れています。紀伊半島の中心部である大台ケ原山地から伊勢湾に流れてくる大河で、古代から伊勢神宮の神域との結界として、また伊勢神宮の参拝前に禊を行うべき川として神聖視されてきました。

この宮川が現在の河道になったのはせいぜい江戸時代以降のことで、それ以前の宮川は本流からいくつもの支川が分かれており、外宮の北縁部、つまり現在の伊勢市の中心市街地に当たる地域を横断するように幾筋も流れていました。
歴史学者である西山克氏の「道者と地下人」という本によると、平安時代(10世紀ごろ)の記録に、宮川の支川として「北宮川」、「小柳川」、「清川」、「豊川」という名前があり、それらの一部は21世紀の今も水路として残っています。
宮川本川とこれらの支川は頻繁に洪水をもたらしましたが、その一方で土砂を堆積させて、市街地の形成にも結果的に役立ったわけです。(このような市街地形成は日本全国で見られます。)

環境化学者の谷山一郎氏によると、

外宮の北側を豊川という宮川の分流が流れていました。それは、(中略)宮川と分かれ東に向かい、さらに分岐していました。外宮正宮(引用者注:正宮とは本殿のこと)は川に囲まれており、川は現在の勾玉池付近で再び合流して、勢田川に注いでいました。

外宮正宮の南側のかつての宮川の分流は、現在では外宮敷地内の山中を水源とする御池や勾玉池になっていますが、内宮の五十鈴川岸辺の御手洗場と同じように、昔は正宮南側に御手洗場があったとのことです。また、御池と参道の間の広場は、現在でも川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれ、遷宮の際にお祓いが行われます。

とのことで、宮川支川の「豊川」がさらに分派して、外宮を挟むように流れていたそうです。(リンク FOOCOM.NET  環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食)化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
これをイメージにすると下図の薄いブルーの矢印になるかと思います。(あくまで想像図です)
清川や豊川などの支川は宮川から東(右方向)に分岐し、今の市街地を流れて檜尻川や勢田川に合流して伊勢湾に至ります。


川原大祓は、かつて豊川の南側の派川の左岸(ややこしいですが、外宮正宮のすぐ南に当たる場所)で行われていたのでしょう。ここが現在の三ツ石がある地点です。

ところが、時代が下って宮川本川の堤防整備が進むようになると豊川派川の流量は次第に低下してきます。さらに宝永地震(1707年)によって地面の隆起が起こり、これ以降、水流はほぼ枯渇してしまいました。その名残が外宮正宮と多賀宮など別宮を結ぶ橋(亀石)の水路であり、池であるわけです。

(つづく)

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