(承前)三ツ石騒動は沈静化するのか? 2019年3月16日
外宮はかつて川に挟まれて建っていた 2019年3月17日
伊勢神宮・外宮にある三ツ石について書いてきました。三ツ石は古代にこの付近を流れており、現在は流れが変わってしまった宮川の派川(現在も水路として残る「豊川」)の河原の跡地を示しており、式年遷宮の際の重要神事である「川原大祓」を行う場所の目印である、というのが真相です。繰り返しになりますが、SNSで言われているようなパワースポットではありませんし、伊勢神宮当局も手をかざす行為は控えるよう訴えています。
しかし、江戸時代の伊勢神宮に関する書物などを読んでいると、しばしば三ツ石についての記述がみられます。江戸時代には全国各地から毎年数十万人から数百万人もの参宮客を迎え入れていた外宮ですが、特長ある外観の三ツ石が、参道の中にポツンとあることを不思議に思う人は少なくなかったようです。
江戸時代後期の1797年(寛政9年)に出版された、「伊勢参宮名所図会」という本があります。多くの旅人が利用した伊勢街道沿いの名所や旧跡をイラスト入りで詳しく紹介している、現代の観光ガイドブックの原点とも言える内容の本ですが、これによると
石を鼎のごとく3つ居置き、参宮の時、これを避けて踏まぬを習いとす。これは月次、神嘗祭、又は遷宮の時、御巫内人(みかんなぎうちんど 祭事に奉仕する神職のこと)が御禊を修する所なり
とあり、三ツ石は踏まないように注意すべきだという記述もあります。
また、江戸時代中期に外宮の神官であった喜早在清が著した「毎事問」という書物によると、「三石はいかなる名石ぞや」という質問に対し、
曾て(かつて)名石にあらず。これは御巫内人等、祓を修する所なるゆえに目当にて石を居置きたるなり
とあり、目印であることを断言しています。当然ながら、神様が祀ってあるなどとは書かれていませんが、由緒もろくに調べずに何でもありがたがって拝む人は江戸時代から多かったのかもしれません。
2019年3月17日日曜日
外宮はかつて川に挟まれて建っていた
前回に続いて、伊勢神宮・外宮にある三ツ石についてです。三ツ石は「川原大祓」という神事を行う場所の目印の石標であり、これ自体が信仰の対象になるものではないことを書きました。
次の問題は、なぜ「川原大祓」が川原でもないこの場所で行なわれているかということです。結論から言えば、外宮創建時の太古はこの場所に川が流れており、その後の地震など地形の変動によって現在のような陸地の姿になったということが理由のようです。
伊勢市には「宮川」という一級河川が流れています。紀伊半島の中心部である大台ケ原山地から伊勢湾に流れてくる大河で、古代から伊勢神宮の神域との結界として、また伊勢神宮の参拝前に禊を行うべき川として神聖視されてきました。
この宮川が現在の河道になったのはせいぜい江戸時代以降のことで、それ以前の宮川は本流からいくつもの支川が分かれており、外宮の北縁部、つまり現在の伊勢市の中心市街地に当たる地域を横断するように幾筋も流れていました。
歴史学者である西山克氏の「道者と地下人」という本によると、平安時代(10世紀ごろ)の記録に、宮川の支川として「北宮川」、「小柳川」、「清川」、「豊川」という名前があり、それらの一部は21世紀の今も水路として残っています。
宮川本川とこれらの支川は頻繁に洪水をもたらしましたが、その一方で土砂を堆積させて、市街地の形成にも結果的に役立ったわけです。(このような市街地形成は日本全国で見られます。)
環境化学者の谷山一郎氏によると、
外宮の北側を豊川という宮川の分流が流れていました。それは、(中略)宮川と分かれ東に向かい、さらに分岐していました。外宮正宮(引用者注:正宮とは本殿のこと)は川に囲まれており、川は現在の勾玉池付近で再び合流して、勢田川に注いでいました。
外宮正宮の南側のかつての宮川の分流は、現在では外宮敷地内の山中を水源とする御池や勾玉池になっていますが、内宮の五十鈴川岸辺の御手洗場と同じように、昔は正宮南側に御手洗場があったとのことです。また、御池と参道の間の広場は、現在でも川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれ、遷宮の際にお祓いが行われます。
とのことで、宮川支川の「豊川」がさらに分派して、外宮を挟むように流れていたそうです。(リンク FOOCOM.NET 環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食)化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
これをイメージにすると下図の薄いブルーの矢印になるかと思います。(あくまで想像図です)
清川や豊川などの支川は宮川から東(右方向)に分岐し、今の市街地を流れて檜尻川や勢田川に合流して伊勢湾に至ります。
次の問題は、なぜ「川原大祓」が川原でもないこの場所で行なわれているかということです。結論から言えば、外宮創建時の太古はこの場所に川が流れており、その後の地震など地形の変動によって現在のような陸地の姿になったということが理由のようです。
伊勢市には「宮川」という一級河川が流れています。紀伊半島の中心部である大台ケ原山地から伊勢湾に流れてくる大河で、古代から伊勢神宮の神域との結界として、また伊勢神宮の参拝前に禊を行うべき川として神聖視されてきました。
この宮川が現在の河道になったのはせいぜい江戸時代以降のことで、それ以前の宮川は本流からいくつもの支川が分かれており、外宮の北縁部、つまり現在の伊勢市の中心市街地に当たる地域を横断するように幾筋も流れていました。
歴史学者である西山克氏の「道者と地下人」という本によると、平安時代(10世紀ごろ)の記録に、宮川の支川として「北宮川」、「小柳川」、「清川」、「豊川」という名前があり、それらの一部は21世紀の今も水路として残っています。
宮川本川とこれらの支川は頻繁に洪水をもたらしましたが、その一方で土砂を堆積させて、市街地の形成にも結果的に役立ったわけです。(このような市街地形成は日本全国で見られます。)
環境化学者の谷山一郎氏によると、
外宮の北側を豊川という宮川の分流が流れていました。それは、(中略)宮川と分かれ東に向かい、さらに分岐していました。外宮正宮(引用者注:正宮とは本殿のこと)は川に囲まれており、川は現在の勾玉池付近で再び合流して、勢田川に注いでいました。
外宮正宮の南側のかつての宮川の分流は、現在では外宮敷地内の山中を水源とする御池や勾玉池になっていますが、内宮の五十鈴川岸辺の御手洗場と同じように、昔は正宮南側に御手洗場があったとのことです。また、御池と参道の間の広場は、現在でも川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれ、遷宮の際にお祓いが行われます。
とのことで、宮川支川の「豊川」がさらに分派して、外宮を挟むように流れていたそうです。(リンク FOOCOM.NET 環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食)化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
これをイメージにすると下図の薄いブルーの矢印になるかと思います。(あくまで想像図です)
清川や豊川などの支川は宮川から東(右方向)に分岐し、今の市街地を流れて檜尻川や勢田川に合流して伊勢湾に至ります。
川原大祓は、かつて豊川の南側の派川の左岸(ややこしいですが、外宮正宮のすぐ南に当たる場所)で行われていたのでしょう。ここが現在の三ツ石がある地点です。
ところが、時代が下って宮川本川の堤防整備が進むようになると豊川派川の流量は次第に低下してきます。さらに宝永地震(1707年)によって地面の隆起が起こり、これ以降、水流はほぼ枯渇してしまいました。その名残が外宮正宮と多賀宮など別宮を結ぶ橋(亀石)の水路であり、池であるわけです。
(つづく)
2019年3月16日土曜日
三ツ石騒動は沈静化するのか?
伊勢神宮・外宮の参道、まっすぐ進めば正宮(本殿)へ、左折すれば別宮の多賀宮や土宮、風宮に至るというその分岐あたりに、三ツ石という石があります。
大きな石が地表から30センチほど突き出し、銅器の鼎(かなえ)のように3つに割れた形をしています。しめ縄で囲まれているためもあって、かなり目立ちます。
一部の観光ガイドブックやインターネットホームページ、ブログなどには「三ツ石はパワースポット」であるとか、「手をかざすと温かさを感じる」などといった記述がみられます。
また、実際に外宮に行くと、三ツ石の周りに人垣ができており、両手をかざしたり、拝んでいる人がいるのも頻繁に見かけるようになりました。
しかし、こんなふうに三ツ石に手をかざしている人など、私が子供の頃にはまったく見たことがありませんでした。自分の知る限り、こうした三ツ石にまつわる奇習(?)を見かけるようになったのは、平成25年に斎行された第62回式年遷宮の数年前くらいからだったと思います。つまり、つい最近のことなのです。
この時期は、リーマンショックによる不景気が世情を覆っていました。伊勢神宮が「ヒーリング」とか「癒し」とかの切り口で喧伝されるようになった頃です。また、スマートホンが普及して、SNSが情報拡散手段として社会に認知された頃にも重なります。
三ツ石がパワースポットなどとは誰が言い出したことなのか知る由もありませんし、もちろんどのような宗教観を持とうとそれは各人の自由ですが、伊勢神宮のホームページによると三ツ石とは次のようなものです。
古殿地の南側にある三個の石を重ねた石積みで、この前では御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)や奉仕員を祓い清める式年遷宮の川原大祓(かわらおおはらい)が行われます。近年、手をかざす方がいますが、祭典に用いる場所なのでご遠慮ください。
つまり、神様の依代といった信仰の対象ではなく、神事を行う場所の「目印」という理解が正しいようです。「手をかざす行為は遠慮すべき」ことがはっきり書かれていますので、外宮をお参りする方はパワースポットなどという俗説には惑わされないでほしいものです。
ところで、川原大祓という、本来なら清流が流れる川の前で行われるべき神事が、川でも何でもない参道の真ん中で行われるのはなぜでしょうか。
冒頭で、左折すると多賀宮などの別宮に至る・・・と書きましたが、この方向、つまり三ツ石の南側に進むと、途中に池があり小川が流れていることに気付きます。
実は、今では想像すらできませんが、外宮が現在のように整備された7世紀の飛鳥時代以前には、ここには「豊川」という川が流れていました。池や小川はこの頃の名残です。外宮の正宮は、清流のすぐ近くに建っていたということになります。
大きな石が地表から30センチほど突き出し、銅器の鼎(かなえ)のように3つに割れた形をしています。しめ縄で囲まれているためもあって、かなり目立ちます。
一部の観光ガイドブックやインターネットホームページ、ブログなどには「三ツ石はパワースポット」であるとか、「手をかざすと温かさを感じる」などといった記述がみられます。
また、実際に外宮に行くと、三ツ石の周りに人垣ができており、両手をかざしたり、拝んでいる人がいるのも頻繁に見かけるようになりました。
しかし、こんなふうに三ツ石に手をかざしている人など、私が子供の頃にはまったく見たことがありませんでした。自分の知る限り、こうした三ツ石にまつわる奇習(?)を見かけるようになったのは、平成25年に斎行された第62回式年遷宮の数年前くらいからだったと思います。つまり、つい最近のことなのです。
この時期は、リーマンショックによる不景気が世情を覆っていました。伊勢神宮が「ヒーリング」とか「癒し」とかの切り口で喧伝されるようになった頃です。また、スマートホンが普及して、SNSが情報拡散手段として社会に認知された頃にも重なります。
三ツ石がパワースポットなどとは誰が言い出したことなのか知る由もありませんし、もちろんどのような宗教観を持とうとそれは各人の自由ですが、伊勢神宮のホームページによると三ツ石とは次のようなものです。
古殿地の南側にある三個の石を重ねた石積みで、この前では御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)や奉仕員を祓い清める式年遷宮の川原大祓(かわらおおはらい)が行われます。近年、手をかざす方がいますが、祭典に用いる場所なのでご遠慮ください。
つまり、神様の依代といった信仰の対象ではなく、神事を行う場所の「目印」という理解が正しいようです。「手をかざす行為は遠慮すべき」ことがはっきり書かれていますので、外宮をお参りする方はパワースポットなどという俗説には惑わされないでほしいものです。
ところで、川原大祓という、本来なら清流が流れる川の前で行われるべき神事が、川でも何でもない参道の真ん中で行われるのはなぜでしょうか。
冒頭で、左折すると多賀宮などの別宮に至る・・・と書きましたが、この方向、つまり三ツ石の南側に進むと、途中に池があり小川が流れていることに気付きます。
実は、今では想像すらできませんが、外宮が現在のように整備された7世紀の飛鳥時代以前には、ここには「豊川」という川が流れていました。池や小川はこの頃の名残です。外宮の正宮は、清流のすぐ近くに建っていたということになります。
(つづく)
2019年3月3日日曜日
神宮美術館「記念特別展」に行きました
伊勢神宮が運営する美術館である「神宮美術館」に行ってきました。
神宮美術館は平成5年に斎行された式年遷宮を記念して建設された美術館で、文化勲章受章者や文化功労者、日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)といった方々が、式年遷宮を奉賛して伊勢神宮に奉納した、絵画、書、工芸品などの美術品を展示しています。
リニューアル工事のためしばらく閉館していましたが、3月1日から、天皇陛下御即位30周年 神宮美術館開館25周年記念特別展である 歌会始御題によせて 光 平成の御題を振り返る が始まりましたので見に行ってきました。
神宮美術館は平成5年に斎行された式年遷宮を記念して建設された美術館で、文化勲章受章者や文化功労者、日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)といった方々が、式年遷宮を奉賛して伊勢神宮に奉納した、絵画、書、工芸品などの美術品を展示しています。
リニューアル工事のためしばらく閉館していましたが、3月1日から、天皇陛下御即位30周年 神宮美術館開館25周年記念特別展である 歌会始御題によせて 光 平成の御題を振り返る が始まりましたので見に行ってきました。
神宮美術館は、伊勢神宮の博物館である神宮徴古館(ちょうこかん)や農業館などと同じ伊勢市郊外の倉田山と呼ばれるエリアにあります。
建物は日本藝術院会員である大江宏氏が設計したもので、平安時代の寝殿造を連想させる優美なデザインです。
神宮美術館は例年この時期に、宮中での歌会始(うたかいはじめ)の御題にちなんだ作品群を特別展を開催しています。
今回は天皇陛下の即位30周年を奉祝し、今年の歌会始の御題であった「光」をテーマにした展示となっています。
当然ながらというか、館内は一切の撮影が禁止されているため、どのような作品があったのかをパンフレットから抜粋してみると・・・
横山大観 絵画 「正気放光」
大山忠作 絵画 「瑞翔」
平山郁夫 絵画 「長安の残輝」
室瀬和美 蒔絵螺鈿丸筥 「秋奏」
などなど。絵画のほかにもブロンズ彫刻、木彫、織物、陶磁器、彫金などさまざまな作品がありました。
有名な超一流の芸術家によるものばかりなので、どれも素晴らしい作品です。
私もつい、作品の目録を購入してしまいました。
大人一人の入館料は500円。都会の美術館のように混雑もしていませんから、ゆったりと作品と向かい合うことができます。
3月26日まで開催されていますので、皆さまもぜひお訪ねいただいてはどうでしょうか。
リンク 神宮の博物館ホームページ 神宮美術館
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